05
氷雨の首筋をぽんぽんと撫でて、アマキはその乳を吸う仔馬に目を向けた。
生まれて一月ほど経つが、まだ完全な芦毛にはなっていない。栗色の毛のあいだに、よく目を凝らさないと白い毛を見つけることはできなかった。
厩にいる馬は、氷雨とその仔馬だけだ。前はもっといたが、屋敷で馬を使うのは自分とテマだけ。ふたりの足にできたらそれでいいと、売ってしまった。
「この子の名前、まだつけてないんだ」
タカトヲを見遣ると、氷雨の背に鞍を載せているところだ。
「お乗り下さい」
氷雨とアマキの間に立って、彼がこちらに手を差し出す。
アマキはタカトヲに礼を言って、その手を掴み
タカトヲの馬は門に繋いでいる。氷雨のたずなを引きながら歩くタカトヲの背を見つめて、アマキは微笑んだ。
「うれしいな」
「……そう惜し気もなく連呼されては」
「だって、うれしいんだもん。気持ちは素直に伝えないと……」
ふと、タカトヲが足を止める。氷雨が二の足を踏んで嘶いたのをなだめて、何事かとアマキは首を傾げた。
「どうした?」
「―――わかりました」
タカトヲは氷雨のたずなと背に手をかけると、音もなく地面を離れる。カシャンとわずかに鞍の金具が鳴って、なんと氷雨の背に乗ってしまったではないか。
「え、どうした?」
急なことに混乱しているアマキを前にして、「行きましょう」と氷雨の腹を軽く蹴る。
「タカトヲ!?」
「お黙り下さい、舌を噛まれます」
氷雨は軽快に走り出し、門を抜けうねる畑の道を抜け、あっという間に飛び出していく。
「ねえ、どこに行くの?」
遠乗りには速過ぎる速さで進む氷雨のたてがみを撫でながら、タカトヲを振り返る。そんなことを言っている間にも、山間の道を抜けて岩肌の見たこともない道を登っていた。
「もうすぐです」
タカトヲがたずなを引いて、氷雨がわずかに立ち上がる。からからと地面の砂利が傾斜を下って行った。
「―――これは……」
驚きに目を見開いて、アマキは言葉を失った。
―――海だ。一面の、蒼い海―――……。
氷雨が登ったのは、崖のような場所だった。そこから一気に広がって、遥か彼方の水平線に太陽の光がきらきらと反射して見える。
波打つ水面は、群青よりわずかに明るい……綺麗な蒼。
冬だというのに、よくも凍らず澱みなくあるものだ。
「アマキ丸」
名前を呼ばれてどきりとする。タカトヲの低い声は、思ったよりも近くにあった。
「……宮廷にお越し下さい」
背中越しにタカトヲの温もりを感じて、アマキはため息をつく。
アマキが海を見たいと言ったから、タカトヲはきっとここを選んだのだろう。こんなにも近くに海があるとは思わなかったし、何よりもうれしかった。
が、それが全てこの説得のためだとしたら……なんだか癪だ。
「いやだよ、だから言ったでしょう。宮廷の加護がなくなったら、一人で暮らすか嫁に行くって」
「―――イサダという男ですか」
「そうそうイサダ。さあ、もう帰ろう、雪もちらついてきた」
青空の見えていた空に、白灰色の雲がぱらぱらと集まってきていた。早めに帰らないと、吹雪いてくるかもしれない。
「私は『皇太子』に仕えるために、これまで生きて参りました」
「……うん、」
わかっている。護衛の腕も
今まではそれはアマキのことだったが……正式な跡継ぎが生まれたのなら、そうもいかない。
タカトヲが仕えるべき人は、アマキではなく宮中で産声を上げた赤ん坊だ。
「その目的を失ったら、……もう宮廷に戻る必要はない」
「なに、言ってんの。新しい『皇太子』なら、もう宮廷にいるでしょう」
ふと振り返ると、タカトヲは笑った。痛そうな、苦しそうな笑顔で。
「それが貴方だと、どう言えばおわかり下さいますか」
ずるり、まるで滑り落ちるように氷雨から下りて、タカトヲは冷えた砂利地にかしこまる。
「
言い終わらぬうちに、タカトヲは激しく咳き込む。背を丸めて、苦しそうにぜいぜいと息を吐く。
「タカトヲ!?」
慌てて氷雨から跳び下りて、タカトヲを支え起こす。
―――雪のわずかに積もった岩肌に、赤いものが点々とつく。思わぬものを見つけてしまい、アマキは固まった。
「……タカトヲ、血…が」
ふと見れば、口元を押さえるその指の間からも、つるつると赤い雫が伝い落ちているではないか。
「もとより、長くはありません」
「病気……なの?」
いいえ、と言ってタカトヲは口元の血を小袖で拭う。群青色の羽織が、じわじわと黒く染まっていった。
「寿命なのです」
タカトヲが、静かに言う。揺れるその目は真っ直ぐにアマキを見つめて、嘘ではないと告げていた。
こんなに長い間――物心ついたときから近いところに居たというのに。あまりにも唐突すぎる。アマキは何と言ったらいいかわからず、ただ呆然とタカトヲを見ていた。
「遅すぎたくらいです……貴女に帝位を。それだけを望んで
「タカトヲ……」
伸ばされた腕を支えると、引き寄せるようにその胸の中に抱かれた。
「貴女をイサダという男に奪われるぐらいなら、もうこの命も惜しくはない」
タカトヲのつける香煙の香りと、鉄のような血のにおい。交じり合ってアマキを包み、頭の中をぐらぐらとかき混ぜる。
「わかった……宮廷に行く」
「本当ですか」
「嘘は言わない。――帝位を継ごう」
タカトヲの腕にこもる力を感じながら、アマキははっきりと言った。
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