009
「ねえ、起きているかい」
僕が聞くと彼は力なく手をゆらゆらと振り返す。彼と会話したあの日から、僕はきちんと家に帰った時にただいまを言うようになった。
「Aって憶えてる」
「ああ、憶えてるよ」
自分と会話するというのは奇妙なものだけれど、不思議とあまり違和感はない。それほど僕と彼が中身は別人だからなのかもしれない。
「どんな子だった」
「覚えてないのかい」
「ああ」
彼は少しの間沈黙した。そしてその間に僕はちょっと感づいてしまう。もしかして、失敗したかもしれない。僕が憶えていないということは、二人になる前の僕にとって不都合な情報で、忘れたほうが良いことだったということなのだ。二人の情報共有は基本タブー、それを僕の方から破ってしまったのかもしれない。
どんな酷い言葉が出るのだろうと身構えたけれど、彼の口から出たのはそんなAさんの裏の顔や罵詈雑言なんかではなかった。
「優しい人だよ。すごく」
「そうか」
僕は、肩透かしをくらったようで、なんだかもやもやした気分だったけれど、それ以上聞くのはやめておいた。
当初模索していた指標は既にあるのだ。小説を書くという。
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