第28話 講義 三限目

「実は湯を沸かすのは火を点けるよりも遥かに容易い。後回しにしたのは、単に見ても分かりにくいからだ。火が付けばすぐに分かるが、水の温度が多少上がってもすぐには分からんからな。薪に火を点けることができるようになったお前達ならすぐにできるだろう」


 マンマル、キーリス、ラートリンドの三人が水の入ったコップを手に持っている。


「では、水の分子が激しく振動するように念じるのだ」


 この時、イシュトバルトは何かを感じた。


(何か忘れているか?)


 イシュトバルトは考えるが、特に何も思い付かない。


 しかし、今感じた何かは、瞬時にして不安に変わった。


(何だ、この感覚は……、しかし…、いかん、このままではいかん。何だ、何が…)


「マンマル!」


 イシュトバルトの不安が、最大の警戒まで膨れ上がった時、イシュトバルトの視線の先にマンマルがいた。何かを考えて行動した訳ではない。マンマルが目に留まったから名を呼んだ。


「はい」


 イシュトバルトの額を汗が流れ落ちた。


「旦那様、どうかされましたか?」


 イシュトバルトの様子がおかしい事に気が付いたラートリンドが気遣う。


「いや、何でもない……が、マンマルはちょっと待て」


「はい」


 イシュトバルトはマンマルからコップを取り上げ、小皿に一滴水をたらし、それを持たせた。


「マンマルにはこれくらいがいいだろう。それから、念の為表に出よう」


「はい」


 不思議だが、行動しているうちに自分が何を恐れたかが分かってきた。


「キーリスとラートリンドもこっちの方が面白いだろうから、一緒に来てくれ」


 二人は訳もわからず、しかし何が起こるのか期待しながらついて来る。


「マンマルはその小皿をその辺り…、あぁ、そこでいい。そこに置いて、こっちに戻ってきてくれ」


 そばまで戻ってきたマンマルに、イシュトバルトは改めて言う。


「それじゃあ、あの一滴の水を沸かせてくれ」


「はい」


 マンマルが答えて、振り返ったその瞬間、途轍もない爆音が轟いた。


 突風に吹き付けられる。爆風と言うべきか……。同時に熱を感じた。一瞬だが、大きな炎がすぐ目の前にあるかのような熱だった。


(近くに可燃物があったら危なかったな……)


 十歩ほど離れた先の僅かに一滴の水である。


 イシュトバルトの予想をはるかに超えていた。


 爆風はすぐに治まり、特に被害はなかったが、ラートリンドはイシュトバルトの背後にいなければ、尻餅では済まなかったかもしれない。


「すまん。もう少し離れるべきだった…」


 ラートリンドを立たせながらイシュトバルトは言った。


「一体、何が起こったんですの?」


 呆然自失から、やや立ち直ったラートリンドが尋ねた。


「薬缶で湯を沸かすと、沸騰して薬缶の蓋がカタカタ音を立てることがある。あれは、水が沸騰し、さらに気化して水蒸気となった際、その体積が増えるせいなんだ。体積が増えるせいで薬缶の蓋が持ち上げられ、カタカタと音が鳴る」


「しかし、今の音と突風は、とても薬缶の蓋とは……」


「あぁ、薬缶で湯を沸かす際には、僅かな量が徐々に気化する。極論すれば、水分子が一つずつ水から飛び出して蒸気となる訳だが、僅かに一滴でも瞬時に全てが気化すると…、今のようなと呼ぶべき現象となるのだな」


「ばくはつ…ですか…」


「それと、水が沸騰するのは百度だから、薬缶から噴き出す蒸気も百度だ。その際蒸気の体積は千倍から二千倍程に膨れ上がる。今の爆発では百度を遥かに超える温度になっていた事は間違いない」


「ごめんなさい」


 マンマルが今にも泣きだしそうだ。


「いや、俺の注意が足りなかった。お前が悪いわけではないから気に病む事は無い。しかし、湯を沸かす為には、気化しないように気を付けないといかんな」


「はい……」


 マンマルはがっくりと肩を落としている。


「でなければ、茶を飲むことが出来ん」


「ぷっ…ふふふ……」


「あははは……」


 イシュトバルトが荒っぽくマンマルの頭を撫でると、漸くマンマルも笑い出す。


「はい、気を付けます。……ラートリンド大丈夫?」


「はい、驚いて尻餅を付いちゃっただけですよ。何ともありません」


「しかしまた、面白いものが見れたなぁ。水蒸気爆発……。火山に於いて溶岩が地下水や火山湖に触れたり海に注いだりした際に見られるらしいのだが…、いわば雷の様な自然現象と認識していたが……」


「海で…今の……」


「火山の噴火自体滅多に見られるものではないが…」


「今の……が、海の様な大量の水で起こると考えると寒気がいたします」


「地形が変わるほどの巨大な爆発らしい」


 キーリスの顔から血の気が引く。


「何と……」


「もっとも、水の量が万倍になっても、今の爆発の万倍の威力とはならんだろう。自然の水蒸気爆発では、今ほど見事に一瞬で全分子が沸騰と言う訳には行かんだろうからな。………唯……」


「はい?」


{とんでもない効率ととんでもない威力の魔法を知ってしまったな……」


「!……」


「破城槌や投石機などを遥かに凌駕するだろう。一人で万軍に匹敵し得る。俺も試してみたくなったが、屋敷の近くでは大変なことになりそうだ……。そのうち人里離れた山奥にでも行ってみるか」


 マンマルとキーリスが目を輝かせた。


「言うまでもないが、これは、絶対に何があろうと他人に知られる訳には行かん。皆、胆に銘じておくように」


「はい」

「畏まりました」

「承知いたしました」


「じゃあ、マンマル、もう一度だ」


「はい」


 魔法の脅威を知ることは大切な事だが、恐れを抱いた状態は即座に解消する必要がある、とイシュトバルトは感じた。


 自らの魔法を自ら恐れるようでは、思いを顕現せしめるなど望むべくもない。


 一滴の水を先程と同様に地面に置く。


「今度は、唯沸かすだけだ。思い切り分子を振動させるのではなく、あくまで液体の状態を保ちつつ、その中で跳ね回る分子、その程度を思い浮かべて、やってみろ」


「はい」


 マンマルは返事をした次の瞬間には、イシュトバルトに向き直った。


「終わったか?」


「はい」


 小皿に歩み寄り、水に触れると、水が少なすぎて分かり難いが……、熱い。


「問題ないようだ」


(杞憂だったな)


 その後、すぐにマンマルはコップの水を沸かす際に大きな気泡を一つ作り、ポコッと音を立てる、という新しい遊びを見付けた。


…………

……





「音?」


「はい。距離から考えて相当な音だったようです」


 珍しくイシュトバルトに当たっているからの報告が上がってきた。


 と並ぶ王国の暗部である。もちろん、イシュトバルトに降りかかる災難を未然に防ぐためである。他意はない。幸い、これまでは懇意を願う貴族を遠ざける程度にしか役に立った事は無かった。


「怪我人は?」


「その後慌てた様子も無く、恐らくは特に問題はないかと……」


「ならば良い。気にせず任に当たらせろ」


「はっ、そのように……」


「待て…、どのような音か分かるか?」


「巨大な槌を連想したと申しております」


 王は片頬を吊り上げる。


「分かった。もう良い」


「はっ」


(ふっ……爆音か…、あいつどこぞで火薬でも手に入れたか……)


 そして、寂しげな表情を作る。


(俺も見たいなぁ……)

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