第21話 本懐
(走るな)
キーリスは自分に言い聞かせる。走れば、草に気取られる。
(走ってはならない)
キーリスは見た。建物と建物の間の僅かな隙間、横を向かねば肩が擦れそうな小さな路地から辺りを伺い、近づいて来る王を確認すると、そのまま後退り建物の陰へと見えなくなった男を。不審と言う程でもない。しかし確認する必要はある。
その路地へ向け、一歩踏み出す。と、その時、路地から筒が静かに突き出されたのだった。
雑踏の中、しかし誰もが王を見ている。気付く者はいない。
(走ってはならない)
どれ程自分に言い聞かせても、体が勝手に走り出そうとする。
王は足を止め、露店の店主と言葉を交わしている。おそらくは一言二言。
(頼む、もっと話してくれ)
しかし、願いは届かず、店主は頭を下げ、王は頷き、再び歩き始める。
(頼む、誰か、誰か王を引き止めろ! 誰か、ほんの一言話しかけるだけでいい。衛士は王の前に出ろ。誰か、一瞬で良い…)
(!………しまった…)
その時、キーリスは気が付く。すぐ背後に人の気配があった。己と同じ役目を担った者、己と任を同じくする者、草だ。偶々通りすがりの者がすぐ後ろを歩いている可能性ももちろんある。が、キーリスには疑う余地のない確信があった。何故かは本人にも分からない。そう言うものなのだ。
草は不審な者を人知れず排除する。そして、キーリスの背後にいる草にとって、排除すべき不審なる者はキーリスに他ならない。
気が
ここでキーリスが僅かにでも不審な動きを見せれば、キーリスのあらゆる行動が抑制されることになる。最悪の場合キーリスが取り押さえられる。
(………だめだ…間に合わない……)
王は路地の正面まであと僅かに迫っている。
(路地で男を取り押さえるのは…無理だ)
路地から覗く筒が狙いを定めた。
(もはや……)
キーリスは足を止める。
同時に背後の草も反射的に足を止める。
キーリスは諦めた訳ではない。自ら足を止め、背後の草の躊躇を誘う。いや、躊躇と言うより、ただ
その刹那にキーリスは飛び出す。背後から延ばされた手は、空をつかむ。
一歩、二歩、三歩…。
路地に片膝をつき筒を咥えた男が目に入る。
さらに二歩…。
筒の先から何かが放たれる。視認はできずとも当然それは吹き矢だ。
キーリスは路地と王との間に我が身を躍らせる。
(間に合ったか?…)
自らに発したその疑問に答えるように、突然肩の付け根に燃えるような激しい熱を感じた。まさに焼き鏝を当てられたような熱だ。さらに続けて肩が破裂したかと錯覚を覚える程の痛みが走る。肩には大きな棘の様な矢が刺さっていた。
(良かった…)
かつて経験した事のない激痛、しかしその痛みが嬉しい。キーリスは笑みを浮かべていた。
キーリスは背後にいた草と、さらに幾人かが静かに路地へ入っていくのを見た。おそらくは二人、しかし痛みで意識が乱れ、もはや確信はない。
キーリスにできる事は既に無い。ただ託すのみ。
背後に王の視線を感じる。
(見てはなりません。この場では何も起こってはおりません。王のお姿を目の当たりにした民の一人が少し慌てただけの事。王の眼を惹くような事は何も起こっておりません。何事もなくそのまま行幸をお続け頂ければ本懐を遂げる事が叶います。どうか、何もお気になさらず………王よ…)
キーリスは周囲の民に紛れ、振り返り、頭を垂れ、王が歩み去るのを待つ。
…………
……
周囲に喧騒が蘇り、王が立ち去ったことを告げる。キーリスは脇のやや上に刺さった矢をさりげなく手に取り、腰に下げた革袋の中の小銭と入れ替え、矢の入った革袋は周囲に気付かれぬように足の間に落とした。真相の解明に役に立つかもしれない。周囲に潜む草が入手し、対処するはずだ。
あとは、ただ立ち去る。斃れる事無く立ち去らねばならない。
キーリスは歩いた。どこを通ったのか、今自分がどこにいるのか全く分からない。
ただ歩いた。
ふと我に返り、立ち止まる。
(此処はどこだ?)
そう思いはしたが、然して気になった訳でもない。どこでも構わなかった。ただ、当たりに人の気配がない事に何となく満足を覚えた。
(できるだけ人目に付かぬ所まで…)
再び歩き出そうとして、自分の足が言う事を聞いてくれないことに気が付く。
歩き続けていれば、もう少し進めたかもしれない。一度、立ち止まってしまったため、キーリスの体はもはやキーリスの思い通りに動いてくれる事は無かった。
(此処までか……)
キーリスが意識を失ったとき、二人の男がキーリスの両腕を取り、担ぐようにキーリスを支え、そのまま歩き続けた。
もちろんキーリスにその記憶はない。
…………
……
王は笑みを絶やさず、手を振る民に右手を挙げて答えながら、左手を固く握りしめていた。
(すまん…)
頭を下げている老婆に歩み寄り、声を掛ける。
「具合の悪いところはないか?」
さりげなく後ろを振り返ると、身を挺して王をかばった男の後ろ姿が目に映る。一見普通に歩いているように見えるが、やはり……。
(すまん…)
「お陰様でこの通り元気にしております」
「そうかそうか、それは何より。永く息災に過ごせ」
王は右手で老婆の肩に触れる。
「ありがとうございます」
老婆は再び頭を下げる。
(死ぬな…………。王とは、目の前で命の恩人が毒を受けていても知らぬ顔をせねばならんのか……。王がこれ程に辛い役目であったとは…、王の身でありながら全く知らなんだ…)
王は、老婆の元から踵を返し、再び歩き始める。
王子であった頃、聞かされた言葉を思い出す。
「草は草であることに命を懸けます。兵士が戦場で命を懸けて戦うのと同じ事で御座います。王たる者、それを気に掛けてはなりません。表立って戦う兵士と違い、草は表に立ってはなりません。万一、草の行動に気が付いても、気に掛けてはなりません。草が草であると気取られる事は、草としての命を失う事で御座います。王は王であることに命を懸ける必要があります」
教育係に何度となく聞かされた。
(知っていると思っていた。分かっていると思っていた。しかし、余は何も分かっていなかった。現実が、王である、ただそれだけの事が、これ程苦しく重い物であったとは……)
これを最後に市井の視察は取り止めるべきか、と思いが過る。しかし、思い直す。
(
王はその顔に笑みを湛え、右手を挙げ、頭を下げる民に答える。
左手を握りしめたまま……。
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