第5話 小さな花と賢者

「ん?」


 マンマルの周りに並べられていた石のひとつに枯れ草が一本引っかかっていた。


 イシュトバルトよりも先に、マンマルは石をどけ、そっと枯れ草を拾い上げると、左の掌に乗せ右の掌も横に添えた。


 マンマルは、ゆっくり、実にゆっくりと両の掌をイシュトバルトの方へ差し出した。


 小さな花がそこにあった。


「ちいさなこがくれたはなです」


「乾燥花になっているな」


「かんそうか?」


「あぁ、花の名前はわからないが、女達が花を保存するために乾燥花を作っているのを見たことがある。うまく作ると、枯れても色を失わない」


 小さな花は色を失っていなかった。茎は完全に枯れていたが、その花びらは未だ淡い青色を湛えていた。


 奇跡に鈍感になっていたため、あまり驚きはしなかったが、これも小さな奇跡と言えるだろう。この地域を人が放棄して、五年程と聞いている。全く雨が降らない極度に乾燥した地域とはいえ、風は吹く。少なくとも五年の間、この花はここにあり続け、花びらを散らさず自然に乾燥花になったのだ。


 マンマルは花を守るように両手を閉じ、じっと手を見ていた。


 まるで祈っているようだ。


 手を開けば花を見ることはできるのだが、よほど大切なのだろう。


「お前をマンマルと呼んだ子供が供えた花、なのか?」


「はい」


 確信があるらしい。


「ならばその子はお前の名付け親だ。名付け親がお前に残してくれた花、大事にせねばな。少し、貸してくれるか?」


 マンマルは嫌がるかと思ったが、素直に両手を差し出し、開いた。


 イシュトバルトは枯れた花の茎の部分を綿にくるみ、小さめの薬瓶にそっと入れた。さらに革紐を瓶の口にしっかりと括りつけ、マンマルの首から下げる。


 マンマルは、やはり両手で瓶を包み込み、

「ありがとう……あでぃがど……」

 と、また泣き出してしまった。


 マンマルを落ち着かせてから、念のため、俺は穴の周りから、さらに周辺をつぶさに調べた。すっかり懐いてしまったマンマルが付いて回る。


 特に気なる物は見付からなかった。穴の底とマンマルの体から剥がれ落ちた土を採取し、それぞれ薬瓶に入れる。


 やり残したことはない。


「さて、行くか」


 そう言うと、マンマルの顔色が変わった。とぼとぼと穴の方へ向かう。


 永く住んだ住処の様なものだ。名残惜しいのだろうと思ってイシュトバルトは見ていると、マンマルは穴に入ろうとしている。


 イシュトバルトが口にした言葉は、マンマルが何度も聞いた言葉であった。人の口から出てくる言葉で、唯一マンマルが望まぬ言葉だったのだ。


「何をしている?」


「また、きてくれますか? また、はなしてくれますか?」


 死にそうな声だった。どうやら、穴に入ってまた人を待ち続けるつもりらしい。


 可哀想だが、少し笑ってしまう。


「お前も来るのだ。こんな所で人は生きては行けぬ」


 こんな所に子供を一人で放置するほど非情ではない。まして、奇跡の存在であるマンマルを手放すなどする訳がない。これほど好奇心をそそる存在は他にない。


「もちろん、やりたいこと、行きたい場所が見つかれば好きにして構わんが…。それまでは俺と一緒にいるのだ。俺は、もともと世界中を旅している。そして、これからもだ。だからお前も世界を見ることになる」


「せかい……」


「人が大勢いる所にも行く事になる」


「おおぜい?」


「そうだ、数えきれない程の人だ」


「わたしが、せかいじゅう……ここと、ちがうところへ?」


「そうだ、いやか?」


「まんまる…いきたい……いっしょに・いきたい」


 満面の笑顔だった。


 だが、泣き出した。


「ばんばる…ぼっど…ぼっど……じでぃだい…」


 一瞬考えたが、「もっと知りたい」と言っているのだと分かった。


 もともと子供のあやし方など知らないが、やはりなかなか泣き止まない。


 突然の生を享受し、人の子が何年もかけて経験する事をわずかな間に経験し、喜び、ついには感情が崩壊した。そんな様子だ。


 泣き続けるマンマルに、袖付きの貫頭衣を着せる。イシュトバルトの貫頭衣はマンマルの膝まであったが、ズボンが無いので丁度良かった。長過ぎる袖を折り返す。貫頭衣の肩が肘近くまで落ちているため、袖はほとんど無くなってしまう。ひどくだぶついているため、革紐で腰を縛る。


 そんな時、はたと気が付く。


「大変なことを忘れていた」


 マンマルがぴたりと泣き止む。


「まだ名乗ってなかった……。俺の名はイシュトバルト。イシュトバルト・リルムイーデン。これからお前の旅の道連れとなる。宜しく頼む」


「いしゅとばると………ほうろうの・けんじゃ……」


 今度はイシュトバルトの顔色が変わる。


「何故…知っている……」


「はなしを・きいたことが・あります」


「けんじゃの・しょうごうをもらったと・いってました」


 一瞬にして高まった警戒心はすぐには抜けないが、ずっと人の話を聞いていたのならば知っていて不思議はない。こんな所でもイシュトバルト名が噂に上っただけの事だ。問題は無かろうと思い直す。


「ふぅ…」


(しかし、ちょっと驚いちまった)


「この国の王都の水路建設を手伝ったら、王が喜んでな…。そんな縁でここの調査を頼まれたが、おかげでお前に出会うことができた」


「わたしはまんまるです。ほうろうのけんじゃさまのたびのおともをつとめさせていだだきます。よろしくおねがいします」


(おぉ、挨拶が返ってきた。やけに大人びた文句だ)


 イシュトバルトはそう思いながら頷く。


 気を取り直して、マンマルを荷車に座らせ、自分は土の入った薬瓶に札を張り付け、緩衝のためのぼろ布で包み木箱に収めた。荷台を覆う帆布を適当に木箱に被せ、ずらしていた綱を元に戻し、引き締める。


 出発のために声を掛けようとして、ころんと荷台に倒れているマンマルを見つけた。


 慌てて駆け寄ると、マンマルは寝息を立てていた。


 イシュトバルトは苦笑いしながら、マンマルの横に置いていた背嚢から毛布を取り出すと、ぶらんと投げ出された両足を荷台に引き上げ、先ほどまで羽織らせていたマントを丸めて、頭をのせ、毛布を掛けた。マンマルは起きなかった。


 完全に疲れてしまったのだ。無理もない。石が人になったのだ。その事実を認識する程に、感情が揺り動かされただろう。感動、そして不安。


(ゆっくり眠れ)


 荷台の煽りを上げ、上げたその煽りに被さるまで帆布を引き出すと、マンマルは完全に隠れた。


 イシュトバルトはそっと、そっと荷車を曳き始めた。






 マンマルの旅が静かに幕を開けた。

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