第2話 渇望
ザーラの街とそこから東に歩いて一刻程のクアトの村、そのほぼ中間の街道沿いに、点在する岩のうち膝丈程の岩が多く集まっている場所がある。街道を行きかう人々の多くはその岩に腰を下ろし、しばし足を休める。
そんな岩の中に一つ、人目を集める岩がある。いや、岩というより石、やや大き目の石。地面に埋まっており、見えている部分は掌ほどの大きさしかない。それでも人目を集めるのは、その石がとにかく丸かったからだ。色合いも周りと比べると黄色みがなく、やや明るい。他の岩は全てごつごつとして、層を成しているのが分かる。それらは大きくえぐれていたり、平たく飛び出した部分があったり、極めて不規則な形だ。さらに、その多くは、地面と一体であるようだった。岩の一部分が地面から飛び出ているのではなく、地面そのものが風化し変形しているのだ。その為、この丸い石はただ丸いというだけで人目を惹いた。何か違う種類の石が、ただ一つだけ、ひょっこり場違いなところに紛れ込んでいる。それが人目を惹く。
子供などは掘り返そうとすることもあったが、しかし悠久の時を越え、風化に耐え残った硬い地面は、子供の手ではほとんど削ることはできない。いつしか周りに石が並べられ、囲いのような物ができてからは誰も掘り返そうとする者はいなくなった。
長年に渡って、人目を惹きながらも掘り出される事がなかったのは、他にも何か理由があったのだろうか。
今、その石の前に、小さな青い花が5本、並べられている。
(話が……聞きたい)
"それ"はずっと人々の話を聞いていた。聞いていた意識はなかったが、聞こえていたのは覚えている。そして今、"それ"に自我が芽生えた。今もやはり"それ"は相変わらず通りすがりの人々の話を聞いている。が、今は聞こうとして聞いている。聞いている自らの存在が意識できる。
"それ"は無性に人の話が聞きたかった。
"石"に何故か芽生えた自我、だがその自我に許された自由は、ただ聞く事だけだった。だから耳を澄ます。もっとも、"石"は自由を知らず、その不自由さも自覚していない。光を知らず、それ故暗闇の中にあって暗闇を知らない。そもそも、見るという事を知らない。身動ぎ一つできないが、体を動かす事を知らない。不自由を嘆くことはなかった。"それ"はただの石に過ぎなかった。
自我が芽生えた時、彼は自分が一体何なのか考えた。随分考えた気もするし、あっさり諦めた気もする。もちろん答えは出なかった。
自我を持ったその石は、ただひたすらに耳を澄ます。そんな時を過ごしていた。
(もっと話が聞きたい)
たまには、長話を聞ける事もある。商人は仕入れた物の話や、これから向かう街での取引、それから、失敗談をすることが多かった。農夫は川の水や水路の話が多く、今年の実り具合、たまに新しい作物を考えている、あるいは新しく作物を栽培したが全滅した、といった話を聞かせてくれた。女たちはひたすらに家族の話をした。家族になるかもしれない男の話もよく聞いた。よく分からない話がほとんどだったが、それでも彼の心は満足感で満たされる。何度も聞いた話を反芻しながら、いろいろと考える。
(ディートの実を仕入れたって言ってた)
(ディートの実って、食べるのかな)
食べるというのは食べ物を口から体に入れる事だというのは知っていた。
(だけど食べるって何だろう)
(何かを口にした時に、「おいしい」って言ってたことがある)
(おいしいって何だろう)
…………
………
(あぁ、もっと話が聞きたい)
分からないことがあり過ぎて、話を聞きたい欲求はいや増す。
しかし、なかなか話は聞けない。人々は黙々と歩き、すぐ近くで休みを取る事があっても、水を飲み、しばらくすると去ってゆくのがほとんどだ。
(話して)
(何か話を聞かせて)
どんなに願っても、たった一人、立ち上がり歩きだす時に「さて…」と言う、僅かにその一言だけが、何日もの間に聞く事のできる言葉の全てだったりする。そんな事は珍しくもない。
人通りを、人の気配を感じながらも何の話も聞けない時、話を聞きたいという願望は渇望へと変わる。
願望を持つのは、不自由の自覚と言えるのかもしれない。少しづつ変わっていたのかもしれない。
彼は昼と夜を知らない。が、人通りが多くなる事と、ほぼ完全に途絶える事が交互におこる事にはすぐに気が付いた。そして、人通りが多いのが昼と、人通りが絶えるのが夜と知った。彼は時間を意識するようになった。
話を聞く事の出来ない夜になると、しばらくの間はいくら待ち焦がれても人は来ないと理解した。自然と次の昼を待つ間、彼は思いを巡らすようになった。ひたすら考え、様々な会話を思い出す。彼は、遠い昔、意識が芽生える前に聞いた話を思い出せるようになっていた。
そもそも、彼が朧げながらも会話が理解できるのは、長い長い間、人々の話し声を聞き続けていた結果であった。
色々な事が分かった。そして、それよりも遥かに多くの事が分からなくなった。いや、分かっていないという事を自覚できた。最初から、何も知らなかったのだ。
時間はたっぷりとあった。
思い出し、考え、思い出す。
(人は歩く、馬は走る、馬車は…)
(動物はお肉、牛もお肉)
(肉は食べる)
(そう言えば「いっぱい食べて大きくなりなさい」って聞いたことがある)
(大きくなるために食べる?)
あらゆる点で理解が微妙であるのは已むを得ない。
(ザーラの街は鉄の街)
(鉄は硬い、鉄は掘る)
(掘るっていうのは地面に穴を開ける)
(地面が鉄?)
(クアトの村は収穫)
(この一帯は雨がない)
(クアトには川がある)
(川があると収穫できる)
…………
………
彼は考え続け、思い出し続けた。
夜が来るたび、人通りが途絶える度、考え続けた。
彼は時間を意識してはいたが、しかし、その時間に対する感覚はかなり希薄なものだ。鼓動もなく、呼吸もなく、空腹もない彼にとっての時間とは、交互に訪れる昼と夜であり、その昼と夜はすぐ傍の街道を人が通るようになるかどうかだった。たまたま、一日人通りが無ければ、彼にとっては夜は明けない。たまたま、一時的に人通りが途絶えると、夜になったと思い込む事すらある。
そのため、彼はなかなか気付く事ができなかったのだ。
人通りが徐々に減り、やがて絶えてしまっていた。
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