目録番号010 美しき皇帝の肖像
彼の国は、常春の地上の楽園。
国を治める美しき皇帝は、神の代理人であった。それは、神が国を治めていることと、同じことだと、誰もが信じて疑わない。
疑う必要があろうか。美しき皇帝の国は、常に春で、豊かで、平和そのものだった。地平の彼方の大河の向こうにあるという、神に見放された地とは比べようもないほど、恵まれた国であった。
とは言え、皇帝の民が苦しみと悲しみと無縁だったわけではない。人の子であるからには、歓びの数だけ、苦しみと悲しみがある。そういうものだ。
――讃えよ、讃えよ、神を!
――――讃えよ、讃えよ、神を!
皇帝が美しいのは、神に愛されているからとも、あらかじめ美しい代理人をこの世に創ったとも言われている。人々がなんと言おうとも、皇帝が神の寵愛を授かっているのは、誰もが知っている。
八百年もの間、美しい姿で常春の地上の楽園を収めている皇帝を、うらやむ者も多くいる。妬む者も少なくない。
だが、そんな畏れ多い感情は、皇帝のお姿を一目見れば、たちどころに霧散してしまう。
なるほど、神の寵愛を授かるにふさわしい美貌だと、誰もが納得してしまう。
――讃えよ、讃えよ、美しき皇帝を!
――――讃えよ、讃えよ、美しき皇帝を!
皇帝は、神から与えられたすべてを見通す力を持っている。その太陽の睫毛に縁取られた
さて、美しき皇帝の金色の眼は今、若い村娘を見ていた。
三枝の燭台の灯りと、窓から差し込む月明かりを頼りに、静寂の宮殿を奥へと進む村娘だ。村娘は農夫の娘でもある。今朝、興の赴くままに皇帝が広大な国の北を見通していたときに、見つけた娘だ。
明日には羊飼いの青年の妻となるはずだった娘を、皇帝は選んだ。若さゆえか、希望に豊満な胸を高鳴らせる姿が、好ましかった。ただそれだけで、皇帝は娘を宮殿に招いた。
皇帝の使者もまた、皇帝ほどではないが神の恩寵を受けている。奇跡と呼ばれるその力で、娘は強引にこの静寂の宮殿に連れてこられた。
そのさまを、皇帝はずっと眺めていた。恋人が引き裂かれる嘆きは、いつものように滑稽で、皇帝を楽しませる。
羊飼いの青年の抵抗など、抵抗とは呼べない。駄々をこねる子供のようだと、皇帝は葡萄をつまみながら笑った。
青年はまだ涙を流している。まるで子供のように泣きじゃくっている。泣きじゃくったまま、気が触れてしまうのではないかと、羊飼いの母は胸を痛めている。息子を思ってのことではない。夫をなくし、稼ぎは息子に頼る他ない母は、自分の将来を案じて胸を痛めているのだ。
今、皇帝の金色の眼に映る村娘を見たら、羊飼いはどんな顔をするだろうか。
美しい皇帝は、羊飼いの青年も呼び出そうかと、残忍な遊びを思いついたが、すぐにつまらないと頭を横に振った。
三枝の燭台を持つ村娘は、羊飼いの青年ほど嘆いてはいない。
今、村娘の胸のうちにあるのは、今朝まで高鳴らせていた希望はもうない。あるのは、不安、不満、困惑、恐れ、それから隠しきれない期待だった。たしかにあった引き裂かれた恋人への悲しみは、いつしか背徳感に変わっていた。
静寂の宮殿は、娘の息遣いも足音も飲み込んでしまう。
娘は、皇帝に選ばれたことを喜んだ。喜ばずにいられようか。美しき皇帝に選ばれるような理由は、ついぞわからなかった。無口な使者たちは、教えてくれなかった。あるいは、はじめから皇帝が選んだ理由を知らなかったのかもしれない。きっとそうだろうと、空駆ける馬車の中で娘は自分に言い聞かせた。これは名誉なことだと。恋人の叫びが耳に残っていたけれども、それもやがて消えるだろうとわかっていた。
娘は、自分が美しくないことをわかっている。たしかに、村ではべっぴんさんと呼ばれるけれども、それは若さのおかげだとわきまえていた。その若さの恩恵を受けている間に、羊飼いの青年に想いを寄せ合えた。それだけで、未来に希望を持てたというのに。
なぜ、美しき皇帝は自分を選んだのだろうか。
「神よ、どうか……」
空駆ける馬車の中で、娘が神に何を望んだのか、美しき皇帝はもちろん知っている。
皇帝は、葡萄酒を傾けながら、娘の祈りを見通して、笑った。
――讃えよ、讃えよ、神を!
――――讃えよ、讃えよ、美しき皇帝を!
どれほど(時間と距離の両方の意味で)、娘は静寂の宮殿を彷徨ったことだろう。
月明かりが差し込む窓辺で、真紅の薄衣をまとった美しき皇帝の後ろ姿を目にしたとき、娘の混沌とした胸の内で、恐れよりも期待が上回った。その証に、娘は子宮が鼓動を打ったと錯覚していた。皇帝の背に流れる金色の髪の奔流に溺れそうで、娘は呼吸を止めかけた。そんな度し難い気後れは、皇帝が振り返るまでのこと。
「我が名乗る必要があるか?」
「いいえ、美しき皇帝陛下」
この世のものとは思えぬ美しき声に導かれるようにして、娘は答えていた。そう、答えていた。陶然とした娘に、皇帝は満足げに歩み寄る。
「そなたの顔には、隠しきれぬ不安の色がある」
「はい」
「そなたの胸には、隠しきれぬ恋人への罪悪感がある」
「はい」
「そなたの純潔には、隠しきれぬ期待の熱がある」
「はい」
いつの間にか、皇帝は娘の手から燭台を取り上げていた。
「もう一度、問おう。我が名乗る必要があるか?」
「いいえ、我が国に常春を授けたもう神よ」
熱に浮かされた娘が答えると、燭台の灯りがかき消えた。いつの間にか、窓という窓には、月明かりを通さぬ幕が下ろされていた。
娘はすべてを悟った。
朝夕欠かさずに祈りを捧げた神の腕の中にいることを。
美しき皇帝は、神の代理人などではないことを。
「娘よ、そなたは何を捧げるか?」
「すべてを……」
乱暴に冷たい床に押し倒されたとき、娘の胸のうちに羊飼いの青年の顔が蘇った。
「何も案ずることはない。日が昇ればいつもと同じ朝がくる」
恋人の面影を押し潰すように、胸を掴んだ神がささやく。その手は炎のように熱かった。
抵抗するすべてを剥ぎ取られた娘に、神はもう一度問う。
「娘よ、そなたは何を捧げるか?」
「すべてを! あたしの血と肉と骨、魂も、すべてを神に捧げます!」
「では、いただくとしよう」
あってしかるべき痛みすら、娘は悦んだ。
神にすべてを捧げる。その行為に、わずかな苦痛もあるはずがない。
娘は、快楽のうちに魂が溶かされていくのを感じた。神の燃える手によって。
快楽のうちに、行われる。これまでも、これからも。
――讃えよ、讃えよ、神を!
――――捧げよ、捧げよ、神に!
一筋の朝日が、
皇帝は、美しい顔を曇らせた。
傷一つ、シミひとつない美しい肢体を染め上げる血潮のぬめりのせいではない。むせ返るような血の匂いのせいでもない。
気だるそうに上体を起こした皇帝は、美しい指を自らの口の中に差し入れた。
奥歯の裏からつまみ出したのは、指輪だった。
神も、恋人の贈り物は食べなかったらしい。
「先に外させるべきだったな」
つまらなそうに血まみれの指輪を、朝日に向けて弾き飛ばす。指輪は、朝日に溶けるように消え失せる。
血溜まりと食べ残しの骨や肉を踏みつけながら、美しき皇帝は気だるそうに窓辺に歩み寄る。
光を遮っていた幕が消え失せ、静寂の宮殿の中を朝日が染め上げる。
血溜まりも、骨も肉も、どこにもない。皇帝の肢体から滴っていた血潮も、一滴も残らず消え失せた。
消え失せたのは、娘だった物だけではない。
美しき皇帝は、すべてを見通す金色の眼で、羊飼いの青年がいつも通りの朝を迎えているのを見た。働き者の朝は、早い。隣町の町娘にどうやって近づこうか、常に悩んでいるのも、皇帝は見通していた。
神は嘘はつかない。
娘はすべてを捧げた。血も肉も骨も魂も、存在した過去すらも捧げてしまった。すべてを捧げるとは、そういうことだ。
声なき声で神が笑うのを、皇帝は聞いた。
「これで、今年も常春が約束された」
美しき皇帝は、神が気まぐれで残酷だと知っている。神というものは、そういうものだ。
羊飼いの青年に対する関心を失った皇帝は、興の赴くままにあらゆるものを見通した。
ただ一つ、地平の彼方の大河の向こうだけは見通すことができない。向こう岸は、神の力が届かぬからだ。
大河のほとりで、皇帝は対岸から少年が流されて来るのを見た。溺れそうな少年は、とてもみすぼらしい。だが、あと数年すれば美しい少年に育つことを知った。
「この手で美しく育て上げるのも、面白そうだ」
素晴らしい生贄だと、声なき声で神が喜ぶのを、皇帝は聞いた。
美しき皇帝は、神が気まぐれで残酷だと知っている。
今は、その筆舌に尽くしがたい美しさで、神をも虜にしている。だが、永遠に虜にできるとは考えていない。もし、あの少年が自分よりも美しくなったら――
「それはそれで、面白い」
――讃えよ、讃えよ、神をも虜にした美しき皇帝を!!
――――讃えよ、讃えよ!!
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