仮面家族の時間
パピコが産声を上げたのは、神戸の閑静な住宅街の中にある、個人病院だった。
パピエルの後を追うようにやってきたわが子を見て、母は涙を流した。
初めて母乳を上げるとき、母が手に持っていたパピコを飲んだことから、名前を、パピコと名付けられた。その流れで、双子の兄には、パピエルという名前が付けられることになった。
パピコとパピエルは、すくすくと育った。テレビも音楽もない、無音な環境で、お互いの声だけが、二人の世界に流れていた。正確には、テレビやCDデッキはあったのだが、ついているのを見たことがなかった。そのためパピコは、テレビをつけるということを知らず、色んな番組が映ることなど、知る由もなかった。友達の家に招かれた時、テレビがついているのを見て、パピコは心底驚いたのだ。友達とそのお母さんは、そんなパピコの反応を見て、始めは面白がっていたが、それが冗談ではないと知ると、怪訝な顔でパピコを見ていた。
母と父は、物静かな人たちで、夫婦喧嘩どころか、二人が話しているのを、パピコはほとんど見たことがなかった。パピコとパピエルが喧嘩をしていても、テレビのニュースを見るような顔で、じっと見ているだけだった。
七五三を済ませた後、パピコは思い切って母に聞いてみた。
「テレビ、つけてもいい?」
いつか聞かれると思ったのか、母は言った。
「どうして? あなたたちの声が、聞こえなくなるじゃない」
両親は、子どもたちの〝声”を聞くために、極力しゃべらず、テレビも音楽もつけずに、生活をしていたのだ。
自分たちは毎日喧嘩をしているだけなのに、それを見て楽しいのだろうか、とパピコは思った。
だが、普段口数が少ない分、お母さんが疲れたら大変、とパピコはそれ以上聞くのはやめておいた。
土日は、パピコとパピエルは、決まって友達の家に預けられていた。
お母さんとお父さんは、朝から夜まで家を空けていた。
二人がおもちゃの取り合いで喧嘩をしていると、次の日、お母さんとお父さんは、黙って同じおもちゃを二人に与えてくれた。そのうちに、一つだけあれば事足りるものまで、何でも二つずつくれるようになった。
パピコとパピエルは、物の取り合いで喧嘩をすることはなくなった。
幼稚園を卒園するころ、パピエルだけ、お母さんとお父さんの寝室に呼ばれたことがあった。
そこで、盗みの才能があることを、両親の口から告げられたのだった。
「今まであなたたちのことを見てきて、あなたの方が、私たちの仕事を継ぐ素質があるみたいねって、夫婦の間で話してたの」
パピエルは、両親からは自営業をしていると聞かされていたが、詳しいことは聞かされていなかった。
ただ、家からは離れたところに仕事場があるから、家を空ける時間が長いのだと聞かされていた。
「お母さんたちのお仕事、手伝えるの?」
「この仕事をするには、覚悟を決めてもらわんにゃならん。いいね?」
「うん」
パピエルは頷いた。
それを見て両親は、自分たちが代々伝わる盗賊一族であるということ、週末に実行し、平日にそれを売りさばいていることを、パピエルに初めて打ち明けた。
パピエルは驚いた。
まさか、自分の両親が犯罪者で、そういう血筋なのだと思うと、すぐには受け入れられない事実だった。
その日以来、パピエルは、おもちゃを全部妹のパピコにあげた。
何も知らないパピコは、戸惑いながらも、喜んでいた。
その姿を見ていると、パピエルは本当のことを言いたくなる衝動にかられたが、妹のためにと思い、ぐっと堪えた。
小学校に上がると、土日に両親に、パピエルが連れられて出かけることが多くなった。
「パピエルはお兄ちゃんだから、お仕事を手伝ってもらうの。パピコは、お家で、お留守番してるんだよ? いいね?」
小学生のパピコは、何も疑うことなく、一人で留守番をしていた。
今までパピエルという話し相手がいた分、静まり返った部屋が、寂しく感じられた。
パピコは、CDデッキに、CDを入れてみた。
使ったことはなかったが、なんとなく分かった。
流れてきたのは、クラシックだった。
ショパンの雨だれ。
心が、安らいでいくのが分かった。塊だった内側にあるものが、波を打ち心地よく広がっていく。
なんて美しいんだろう。
パピコは、週末になると、こっそりCDを聴くのが、密かな楽しみになっていた。
両親とパピエルが家に帰ると、今度はパピエルが、ケーキや、本物みたいにきれいな指輪を、パピコにプレゼントしてくれるようになった。喜ぶべきところなはずなのに、なんだか少し、不気味だった。
なんで、ゾッとするのかな?
胸が、モヤモヤするのかな?
小学生のパピコにはわからなかった。
でも、プレゼントをくれるよりも、そばにいて、一緒に遊んでほしい、というのは、確かな思いだった。
小さいころからずっと、欲しいものは与えてもらっていたので、小学生にして、パピコは欲しいものがなかった。
「何か欲しいものはある?」
「今日は何が食べたい?」
出かける前、必ず両親から聞かれていたが、幼きパピコは、べつに、と答えるのだった。拗ねていたわけではなく、本当に思い浮かばなかった。
いつも、同じ答えを繰り返しているだったが、この日はついに、「クラシックのCDが欲しい」とリクエストをした。
家に一枚だけあったショパンのCDをずっと聴いていたパピコは、他のCDも聴きたくなったのだ。
「分かった」と頷いた両親は、夜になっても帰ってこなかった。
翌朝目が覚めると、パピコの部屋に、グランドピアノが置いてあった。
「弾いてもいいの?」
パピコは、ドキドキしながら母親に聞いた。
「一人でお留守番してる時ならいいわよ」
パピコは言いつけを守り、皆が家を空ける週末に、ピアノに触った。
ショパンの雨だれを、思い出しながら弾いてみた。
不協和音が流れると、CDをかけて、自力で修正した。
その頃には、パピコは普段からパピエルと話すことが少なくなっていた。
その寂しさを紛らわすように、パピコはピアノにのめり込んだ。
もっと話そうよ。
もっと遊ぼうよ。
もっと喧嘩しようよ。
もっと、本音で話してよ。
パピコの心の声を、届けられるような双子間の空気ではなくなっていた。
パピコは中学生になった。
ショパン以外にも、沢山の作曲家の音楽を弾けるようになっていた。
ただ、それを聴いているのは自分だけだということが、なんだか切なかった。
だからなのだろう。
パピコは、音楽の時間が終わった後、クラスメートにピアノの腕前を披露した。
人気者だったパピコは、さらに好感度を上げた。
「将来はピアニスト?」
当時の親友、ピンクが興味津々で聞いてきた。
「考え中」
パピコは観衆の手前はぐらかしたが、将来の夢、という作文では、多くの人の心に音楽の素晴らしさを届けたい、ときっちり文章にして提出した。
ある日、学校からパピコの両親が呼び出された。
将来の夢、という作文で、パピエルが道徳に反することを書いていたということで、指導を受けたらしい。
詳しくは知らなかったが、人気者のパピコに反して、人と関わらないように生きていたパピエルは、クラスでも浮いた存在だった。
パピコとパピエルは、普通のクラスメート以上に、遠い距離の関係になっていた。
「ねえ、音楽室で、パピコのピアノを聴いたパピエル君、泣いてたよ」
あの音楽室での一件からだいぶたったころ、パピコはクラスメートから、そんな話を聞いてみた。
「嘘でしょう?」
平静を取り繕ったが、パピコは内心、動揺していた。
どうして?
あのパピエルが?
パピエルは、両親の仕事を手伝うようになってから、喜怒哀楽を出さないようになっていた。
「それにしても、双子とは思えないよねぇ、あんたたち。性格も全然違うし、話もロクにしてないし」
「家族全体がそうなんだ。仮面家族、みたいな」
パピコはそう言いながら、自分の口から出た言葉に傷ついた。
「何それ。話しかけにくい家族ってどんな感じよ」
まだ中学生のピンクは、無邪気に笑い飛ばした。
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