「僕を見て」と聞こえる時間
今日の象さんは、何か言いたそうな目をしていた。
ダ・カーポの頚を絞められた跡を見て、バキューム先生は、自分に言い聞かせるようにパピコに言った。
「バックグラウンドの中でも、特に保護者を見ることは、とても重要なんです。伝え方を間違えると、ああいう風に子どもが危険にさらされる場合があるので、気をつけるように」
実際、パピコもダ・カーポの首を見て、一気に気が引き締まった。
「ここの保護者で、いわゆるモンスター・ペアレントはどなたですか?」
「クレシェンドの先にいるのは、スナイデルさんかしらね」
バキューム先生が、炭水化物ナイズでもされたかのように言った。
炭水化物メロディーの世界へようこそ。パピコは思わず、その世界の入り口付近で待ち構える、執事のような気持ちになる。
「幼稚園だと、劇の発表会をやるにしても、何でうちの子が主役じゃないの? って言いだす親は珍しくないから、クラスの半数以上は主役を張るのよ。面白いでしょう?」
バキューム先生は、たいして面白くなさそうに言った。
それを聞いたパピコは、変な世の中になったもんだ、と、年寄りじみた感想を持つ。
「スナイデルメグミくんへの対応は、特に気を付けます」
「パピコ先生。あなたは、いつも私が取ってほしい紐の横にある紐を引っ張ろうとしますけど、そろそろ実習も終わりに近づくことですし、いい加減私が取ってほしい紐を見定めてくださる?」
「はあ」
「私は、保護者ではなく、子ども本人のことを第一に考えてるんです」
その日の帰りの会で、パピコが読み聞かせをしていると、事件は起こった。
スナイデルくんが、隣座っていた男の子のお腹を、思い切りパンチしたのだ。
パピコは驚いている間に、ウララ先生が、止めに入り、そこから事が大きくなることはなく、パピコは胸を撫でおろした。
バキューム先生は、事務室で電話に出ていて、不在だった。お互いにバタバタしており、そのことを報告する時間がないまま、夕方になってしまった。事務室で作業に追われていると、一本の電話が鳴った。
電話に出たバキューム先生は、出だしはいつものようにキリッとした口調だったが、だんだんしどろもどろになっていた。どうも様子がおかしい。その場にいた誰もが、耳をダンボにして聞いていた。
電話口からは、微かに、相手の荒々しい口調が聞こえてくる。
バキューム先生の口から、帰りの会、コマツくん、涙目、という言葉が出てきて、パピコはドキッとした。コマツくん、というのは、メグミくんが殴った相手だ。
パピコの走らせていたペンが止まり、全神経が耳に集中する。
「パピコ先生、どういうこと?」
「すいませんでした」
パピコは、帰りの会での一部始終を、バキューム先生に、ところどころ緊張でつっかえながらも、なんとか話すと、バキューム先生よりも前に、園長先生が、口を開いた。
「パピコ先生、なぜそれをすぐにバキューム先生に報告をしなかったんですか?」
「すいません、バタバタしててタイミングがなくて」
「それでもそういう大事なことは、すぐに報告をするように。報告、連絡、相談は基本中の基本です」
ダ・カーポだ。
また、振り出した。
パピコはみんなの顔を見られない。
「起こったことは仕方がないわ。スナイデルさんのところに、電話をしますね」
バキューム先生が、電話をかける。電話はすぐに繋がったようだ。
コマツさんに比べて、こちらはすぐに電話が切れた。
バキューム先生が、ため息をつく。
「どうでしたか?」
園長先生が、たまらずに聞いた。
「うちの子は何かされたからそんなことをしたに違いない、と。こちらが口を挟む余地はありませんでした。だいたいうちの子が被害にあった時は連絡がないのに、加害者に回ったとたん連絡が来るなんて、どうかしてる、とも言われていました」
「被害にあった時に、連絡しなかったんですか?」
禁煙中だということは重々承知しておりますが、ちょっと煙草を吸ってきてください、と声をかけたくなるほど、園長先生は露骨に苛立っていた。
「被害、といっても、彼がふざけて教室を水浸しにしたので、外遊びの時間に雑巾で拭かせたんです。それを、被害という風に受け取られたみたいで」
つける薬がないな、とパピコは思ったが、園長先生は、バキューム先生を責めた。
「どうしてあんなに厄介な親を持つ子にそんなことをさせるんですか」
パピコは少しだけ園長先生を軽蔑した。
「しつけの一環でした、ときちんと説明はできるのですが、それをさせる隙を与えられませんでした」
バキューム先生は落ち着き払っている。
がんばれ、バキューム先生!
パピコはバキューム先生の毅然とした態度がえらくかっこよく見えて、うっかりファンになるところだった。
「相変わらずですね、スナイデルさん」
別のクラスの先生が呟いた。
「そうね。最近落ち着いてたと思ってたんだけど」
「まぁ、うちの子が悪いって、うすうす分かってるけど、突かれたくないから過剰に反応するんでしょうね。うちの子は絶対に悪くないって」
次の日から、メグミくんは、少しずつ悪目立ちするようになった。わざと、危ない場所に座ってこちらをじっと見たり、お弁当をまずいから食べないと言ってみたり。
自由に振るまっているようでも、メグミくんは、ちっとも幸せそうじゃなかった。
心の中で、必死に、ボクを見て! と言っているようだった。
ラメンタンド。メグミくんの別名が、ぽこぽこ泡のように浮かび上がった。
「メグミくんは、ボクを見てっていう感情が、歪んだ形で表に出てますよね」
「やっぱり出会いなのよ。本当にあの子のことを分かってあげられる人に出会えるかどうか。あの子の親が聞く耳を持てたら、出会い直しは何度でもできますよって言ってあげたいんだけどね」
パピコは、バキューム先生が、対等に話してくれたことが嬉しかった。
ファンクラブがあれば入りたいとも思った。
「私が言ってやりますよ、あの子の親に。私はどうせあと少しで実習が終わる身なので、捨て身になれます」
「パピコ先生・・・。私、あなたのファンになりそう」
私もです、バキューム先生。
ここに来て、二人の間に絆のようなものが出来てきた。
気持ちが高ぶっていた時にはああ言ったものの、パピコは家に帰ると、少しだけ冷静になった。
ほんの一か月、幼稚園にいただけの自分が言っても、何の説得力もない。
弱気になっていたパピコの背中を押してくれたのは、やはりアタルだった。
「お前にあるのは、そこだよ。若さ。何も背負うものもないからこそ、勢いで向かっていけるところだろ」
「アタル・・・。今日は特別に、アイス食べてもいい?」
「ああ、食べて精をつけな」
アタルも度量が広くなったよなあ、とパピコはほのぼのと感心した。
ぶれるのは体重計だけ。私はぶれないぞ。
パピコは、アイスを食べながら、何度もシミュレーションを重ねて、アタルをスナイデルさんに見立てて練習をした。
アタルは練習相手として最適で、モンスターペアレントの模倣が上手だった。
パピコはどんどん自信をつけて、本番に挑むことができた。
翌日の夕方、お迎えの時に、時間を作ってもらった。
相手の強い口調に押されそうになりながらも、パピコは、この幼稚園を背負っている気持ちでなく、自分に任せたバキューム先生や、それを許可した園長先生に責任があると考え、責任を取らない覚悟で、本気で会話に挑んだ。
「昨日の件ですが、申し訳ありませんでした」
「あなたね、見てたのになぜ止めなかったの? それが仕事でしょう?」
自分より一回りも年下の相手にも、容赦ない。
「すいません。確かに私は、メグミくんがそうなるサインを見逃しました」
正確には、パピコはラメンタンドの様子がおかしくなるのに気が付いていたが、読み聞かせをしている最中に、子どもに注意をするのはよくないと言われていたのだ。子どもたちは想像力を働かせながら本を見ているため、水を差すことになるからだ。つまり、そばについていたウララ先生が、子どもたちを抑制するべきなのだ。
しかし、そんなことを言っても仕方がない。そんな内部事情は、保護者にとっては関係のない話だということは、パピコにもわかっていた。
「あの後、メグミくんにも、コマツくんや周りで見ていた子にも、話を聞きました。そしたら、ふざけているのをみんなに注意をされてカッとなったメグミくんが、やり返す力のないコマツくんをターゲットにしてお腹をパンチしたとのことでした」
「それはバキューム先生から聞きました」
「はい。メグミくんは、自分の口からお母さんにお話ししたと言ってましたが、メグミは悪くないんだよって言われたそうですね」
「それが何か?」
「メグミくんは、心の優しい子です。でも、コンピューターではありません。生身の人間だからこそ、百パーセント正しいことばかりするわけではありません。それを、ちゃんと見てあげて、理解してあげて、叱るところはきちっと叱ってあげてほしいんです。メグミくんにとって、一番それをしてほしいのは、私共ではなく、お母さんであるあなたなんです」
練習の成果が出ていたが、スナイデルさんには、火に油だったようだ。
「なんて失礼な人! 私の教育方針にまでコケにしたいわけ?」
アジタート。今のところ、そんな呼び名がぴったりだ。
パピコがその後盛り返すことなく、敗戦に終わった戦争を、事務室で報告すると、お通夜ムードが流れた。
一方、その頃、スナイデル家では、今日のパピコからの話を踏まえて、あなたは絶対に悪くない、と、ラメンタンドに言い聞かせていた。
「ねえ、ママはどうして、ボクに何も聞かないの?」
「え?」
「どうして、ボクは悪くなくて、悪いのは全部友達なの?」
「そ、それは」
「ママは結局、自分の育て方を否定されるのが嫌なんだよね、ボクたちのことなんて、見てないんだ」
いつから聞いていたのか、ラメンタンドの、年の離れた兄が出てきて言った。
アジタートの目には、うっすらと涙が光っていた。
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