誰かの一番になりたい時間
新たなダイエットがアタルの口から発表された。
パピコの教育実習が終わるまで待ちきれなかったようだ。
話が違うじゃない、と言うと、多忙なこの時期でも取り掛かりやすいダイエットだとアタルが、自信満々に言った。
「その名も、八時間ダイエット」
「聞いたことあるかも」
「だろ? 名前の通り、一日の食事量を八時間以内に抑えて、十六時間を、飲み物以外は採らないようにするだけのお手軽ダイエット。しかも食事制限はなし。とはいえサラダとコーヒーはこれまで通り続けてな。あ、あと、歩くときは、インターバル歩行を心がけるように」
「はーい。パピコ選手、今からスタートします」
パピコは自己申告をすると、フォークをウィンナーめがけて突き刺した。
「こりゃ早食い選手権だな」
パピコのたべっぷりを見てボソッと呟くアタル。
「最近、どう?」
「サイコロ占いを勉強中」
「そうじゃなくて、大学」
「聞いたらお前、ふんぞりかえるぞ」
「もったいぶらずに、教えなさいよ」
「俺の手相占いで、行列ができてる」
アタルが女の子の手を触っているのを想像すると、パピコはなんだかイライラしてきた。
「手相じゃなくて、フルートで人を集めたら?」
ついそんな嫌みを言ってしまう。
「もう時間だから、行ってくる」
幼稚園の朝は早い。スタスタ歩いて玄関まで行ったところで、アタルが引き留めてきた。
「おい、待てよ」
「はい?」
「インターバル歩行、忘れてんぞ」
「・・・バカ」
一瞬でも、行ってきますのキスを期待した自分が恥ずかしい。
できることならダルセンーニョをここに、セーニョを、「おい、待てよ」の前に置いて、セーニョのとこまで戻りたいところだ。
そうすれば、キスを半分期待しながら振り向くマヌケな自分とおさらばできるのに。
パピコは、尾を引きずりながら、それでもインターバル歩行を忠実に守って歩く自分に嫌気を差しながら、幼稚園に向かった。
今日の象は、目に光が宿っていないように見えた。
いつものように、バスで子供たちを迎えに行き、幼稚園まで運ぶ。
スタッカートは、テヌートのお父さんに、おじさんはおじさんのままでいいんだよ、と声をかけており、パピコは朝から冷や汗をかいた。
またカツラを外すようなことをしたらどうしようかと、気が気じゃない。そんなパピコの心配をよそに、スタッカートがハイタッチをしてきた。
バキューム先生を見ると、とある保護者と話し込んでいた。
バスに戻ったバキューム先生は、小声で、
「あとで話があるから」
とパピコに言ってきた。
「園長先生、先ほど佐藤さんの保護者から聞いた話なのですが」
子どもらを先に部屋に入れた後、事務室でミーティングが開かれた。
「佐藤さん、昨日、オレオくんに、幼稚園で叩いたり殴られたりしたそうです」
「いつ?」
「朝の自由時間だと聞きました」
「誰も気づかなかったのか?」
園長は珍しく怒気を込めた口調で言った。
昨日の自由時間。トランプをしていた中に、オレオと佐藤さんもいたはず。
「ウララ先生なら何か知っているかもしれません」
ウララ先生は、ミーティングには参加せずに、ひらひら組で子供たちのことを見ていた。
「それでは、ウララ先生とオレオくんに事情を聞いてみます」
バキューム先生は、落ち着き払っているように見えたが、表情は曇っていた。
ひらひら組に入ると、バキューム先生が、ウララ先生のところまで一直線に進んでいった。
「先生、あそぼー!」
と、今日も遊び相手探しに苦労をして、パピコにまで標的を定めたスタッカートに引き込まれそうになったが、阿吽の呼吸でしてくれないと困る、と日頃から口酸っぱいく言われているバキューム先生の言葉を思い出して、全員の注意を向けて、朝のお遊戯を始めた。
手が慣れてきたパピコは、音楽ボランティアで、囚人の顔を一人ひとり見渡した時のように、子どもたちの顔を、一人ひとりチェックする。まだ眠たそうな顔をしている子、いい顔をして歌っている子、おどけて注目を浴びようとしている子。そのどれもが、美しかった。
オレオも、スタッカート同様、ふざけて和を乱しているが、悪意のない輝きを放っていた。
反省の色がない分、まだ話はウララ先生で止まっているらしい。
朝のお遊戯が終わり、外遊びの時間になった。
パピコは、バキューム先生から命じられてダウンロードした天気予報のアプリを開いてみる。ウィルスマークがひとつ、ついていた。
ひとつくらいならごまかしてもいいんじゃなかろうか?
子どもたちのキラキラしてパピコを見つめる目をみていると、へへへへっと笑ってごまかしてしまう。
バキューム先生の、射るような視線に気づき、あわてて取り繕ったように、咳払いをする。
「今日はウィルスが蔓延しており、大変危険なため、外遊びは中止します」
パピコは、最もらしく、バキューム先生になりきって言った。
当然のように、クラス中にため息が漏れる。
そうだよなあ、と、パピコもため息をつく。
つべこべ言わずに、外で遊ばせてやればいいのに、あのイシアタマめ。
そう思いながらバキューム先生を睨み付けることなど到底無理な話で、目が合うと、へへへへっと、苦手な愛想笑いを繰り返す、情けない命だった。
パピコが室内自由遊びを告げると、それぞれ好きなおもちゃのところへ散っていった。
危険はないか、トラブルはないか、あちこちに住処を変えて、パピコは子供たちを見守っていると、バキューム先生に呼ばれた。
「ウララ先生は、オレオくんが佐藤さんを叩いたところを見ていないそうですね。なのでオレオくんに話を聞いたら、トリムネくんに叩けって言われたって言い始めたんです」
「トリムネくんですか?」
パピコは、テヌートが嘘をついていることを疑った。トリムネくんといえば、いつも先生の言うことを素直に聞いて、問題行動の見られない、優等生タイプの子どもである。
しかしながら、パピコの予測は外れ、トリムネくんが黒幕だったらしい。
「トリムネくんに話を聞いたら、あっさり白状をしてね」
「あらま」
「しかもやり口が陰湿で、先生が見ていないところで、やれってオレオくんに指図をして、自分は直接手を下さないんですって」
パピコはとてもじゃないが、あの真面目なトリムネくんが、テヌートに命令している姿が思い浮かばなかった。
「お言葉ですが、オレオくんがトリムネくんに、そう口裏を合わせるように言ってるんじゃないですかね?」
「偏見はいけませんよ」
パピコはバキューム先生から、厳しい目を向けられた。
「子どもを考察するのに、バックグラウンドを見ることは大事ですが、偏見を持っては先生失格です」
「すいません」
せっかく雲の上から降りて来てくれたと思ったバキューム先生は、またもや雲の上に登って行ってしまった。
「よろしい。オレオくんは、トリムネくんとは仲良しだから、言うことを聞いたと言っていたので、仲良しだからこそ、嫌だと言えるように話をしました。オレオくんは、善悪の区別を自分の頭でつけられるようにならないといけません。ですが、深刻なのはトリムネくんです」
「そうですね」
「あなたにふります」
「はい?」
「トリムネくんがなぜそういう行動を起こしたのか、話を聞いてくるように」
パピコは言われるがままに、電車ごっこをしているトリムネくんに、話を聞きに行った。
「トリムネくん、ちょっといいかな?」
「先生もあそぼー!」
「お話がしたいんだけど、いい?」
「話って、何?」
まっすぐな目で聞かれ、たじろぎそうになる。そのまま、直接質問を投げかけるわけにはいかない。
まずは、ジャブから。パピコは当り障りのない質問をすることにした。
「ううんとね、ママは好き?」
「嫌い! 世界で一番嫌い」
パピコは言葉を失った。
「え、何で?」
パピコの質問には答えずに、トリムネくんは電車を動かし始めた。
「じゃあ、パパは好き?」
「パパは、日曜日しか家にいない」
後で聞いて分かったことだが、トリムネくんは母子家庭だった。
「それって、不倫ってことですか?」
「そこまでは・・・。ただの恋人関係かもしれないし。いずれにしても、お母さんには息子よりも大事なものがあるのかもしれないわね」
夕方、隣で事務処理に追われるバキューム先生が言った。
トリムネくんのお母さんにとって、トリムネくんが一番ではない。
パピコは、トリムネくんの心の中が、前よりも透けて見える気がした。
「で、今度はそいつを何て名付けたの?」
帰宅後、いつものように幼稚園での出来事を話すと、よくぞ聞いてくれた、とパピコはアタルの質問に満足の表情を浮かべた。
守秘義務の話は園長先生やバキューム先生から聞いているが、アタル以外に当てはまるとパピコは勝手に解釈していた。
「ダ・カーポにするわ」
パピコは、分かりかけてきたと思った保育の世界、振り出しに戻らせてくれたトリムネくんを、そう名付けることにした。
「意味は聞きたい?」
「だいたいわかるからいい」
「そう。ねえ、アタル。アタルにとって、私は何番目に大事?」
「は? お前、そんな面倒くさい女だったっけ?」
「え? ちょっと聞いてみようと思っただけよ」
その話は、それでおしまい。いいような、悪いような。パピコの心はハーフ・ハーフだった。
翌朝、ダ・カーポを見たとき、バキューム先生は、信じられないといった表情を浮かべていた。
「首、首」
とパピコに言うので見ると、ダ・カーポの首筋には、真っ赤な跡がついていた。
「トリムネくん、その首どうしたの?」
何も見当がつかないパピコは、やはり今日も電車ごっこをしているダ・カーポに聞いた。すぐ後ろで、バキューム先生も聞いていた。
「ああ、これ? 昨日ママが、ぐーって押さえたんだよ」
「例の件、トリムネくんのお母さんに電話をしておいたの」
バキューム先生が、パピコに耳打ちをした。ようやく事態が呑み込めたパピコは、体から血の気が引くのがわかった。
「でもね、不思議と怖くなかったんだ、ボク」
パピコは前回の食事から十六時間が立っていたが、初めて食欲を忘れた。
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