恥をかく時間
昨日見た象より、肌色がくすんでみえる。
パピコは、幼稚園の外観を眺めて、しばらくの間、ぼーっとしていた。
朝は、昼や夜よりも、時間が経つのが早く感じる。
気づけば、出勤時刻を過ぎていたみたいで、事務室に入るといきなり園長先生とバキューム先生に怒られた。
「美術館の絵でも見るかのように、微動だにしてませんでしたね」
二人からたっぷりと絞られた後、声をかけてきたのは、パピコが園長と不倫を疑っている控えめな先生だった。
なんだ、目撃したのなら声をかけてくれればよかったのに。
パピコは力なく微笑みながら、女の機転の利かなさを嘆いた。
バキューム先生の小言を聞きながら、バスに乗る。
保護者に挨拶をし、子供をバスに乗せていく。子供たちの笑顔が、咲き誇る。
どの花もみんな、きれいだね。
すぐに音楽に変換して独特な表現がまとわりつくパピコも、シンプルな気持ちになれた。
何気ない保護者との会話から、スタッカートとテヌートは、同じマンションの、隣同士に住んでいることがわかった。スタッカートの父親が、二人を見送りに来ていた。
「あのお父さん、絶対にカツラですね」
バキューム先生にそう言うと、声に出して笑っていた。バキューム先生の笑い声を聞くのは初めてだったので、パピコは怖いものみたさで、カツラ話を深めると、
「言いすぎです」
とバシッと話を切られた。
さっきまで笑ってたくせに。パピコは唇を尖らせた。
「あなた、今日からお遊戯をするのに、余裕ですね」
パピコの脳内に空白が宿る。何のことか分かった後は、サーッと血の気が引いた。
今日はパピコの晴れ舞台の日だった。
すっかり忘れており、練習などしていない。
パピコは持ち前の朗らかさを忘れて、一人でピリピリするはめになり、バスの中で子供らをよせつけなかった。
朝から暴言連発のスタッカートが、バキューム先生の隣に座らされる。
パピコはスタッカートが座っていた席に座り、テヌートを膝の上で耳かきの体勢にさせる。テヌートをピアノに見立てて、パピコはお遊戯に使う曲を弾き始める。
テヌートがひゃっはひゃっはと笑う声が、バスに流れる。
「先生、何やってるの?」
子供らの質問にも答えない。
部分練習をみっちりやって、さあ全体練習をしようかという時に、バスが幼稚園に着いた。
「ありがとう」
急遽ピアノになってくれたテヌートにお礼を言い、バスを降りる。
さきほどよりも、象の色が先程よりもくすんでいるように感じる。
顔は、今にも泣きだしそうな気がした。
大丈夫だからね、ぞうさん。
パピコは心の中でぞうさんの背中を撫でてやり、子供らをひらひら組に連れていく。
パピコはピアノの椅子に座る。
バキューム先生が、子供らを並ばせる。
合図を待つため、ちらっとバキューム先生の方を見ると、険しい顔でパピコを睨み付けていた。
それを見た途端、パピコの心拍数が急上昇。
テヌートの上で動いていた指が、動かない。
車に牽かれそうになった猫みたいに。
黄身が上の方に寄ってるだろう? これは、今日が大波乱になるしるしなんだ。
今朝のアタルの台詞がふいに出てくる。
「パーラッパッパピー」
ふざけるスタッカートの声で、がんじがらめに固められた紐がほどけ、肩の力が抜けた。
スタッカートのことを鬱陶しそうにする周りの男の子たちが、口々にスタッカートに注意をすると、皆に責められたスタッカートのストレスが大爆発。暴言連発で、バキューム先生に一喝されて、ピタッと止まった。
そのままスタッカートを連れ出して、部屋の外でお話してくれればいいのに。そしたらあの恐怖の視線から解き放たれて、震えながら演奏せずにすむのに。
静寂の中、演奏を始める。
子供たちは、のりのりで歌って踊り始める。
幸せ。
練習はできていなかったが、晴れ舞台であの時のように、演奏が止まることはなかった。子供らの笑顔が、音を繋いでくれた。
お弁当の時間、隣の女の子から、声をかけられた。
「先生、今日もサラダとコーヒー?」
三日目なのに、パピコは子供に、食生活を見破られていた。
「先生、ダイエットしてるんだ」
子供相手に、真実を明かすパピコ。バキューム先生がこちらを見ていないかチェックする。
「ダイエットって何?」
パピコがバキューム先生を気にしながら、ダイエットの意味を説明していると、
「え!? 先生、体と見た目、どっちが大事なの? 太ってもいいから食べんちゃい」
女の子の優しさに、涙が出てきそうになる。
お弁当の後、バキューム先生が、パピコを呼び出す。
やはり見ていたか、と思っていたが、話はテヌートについてだった。
テヌートのお弁当が、ここ最近、コンビニのパンが続いているらしく、テヌートに聞いてみると、夜ご飯もパンのことが多いのだというらしい。
テヌートは、お腹が緩く、よくトイレにこもっており、日頃落ち着きがないのも、バキューム先生いわく、食生活が関係しているのだと言う。
「お迎えの時に、お父さんにお話しようと思うので、パピコ先生も一緒に聞いてください」
七時頃、テヌートのお父さんが、お迎えにきた。
パピコは最初、それがテヌートのお父さんだとは、気づかなかった。
朝見た時にはあった、カツラがなかったからだ。
バキューム先生を見ると、あれま! と、一瞬口をあんぐり開けた後に、平静を装っていつものように愛想笑いを浮かべる。
バキューム先生が、テヌートの食生活について話をしている時も、パピコはカツラの行方が気がかりだった。
パピコの視線に気づいたテヌートのお父さんが、頭に手を当てる。
すべすべの頭に、血の気がひいていた。
「ちょっと外させてください」
そう言ってどこかに行くと、カツラをかぶって戻ってきた。
三人とも、何事もなかったかのように、テヌートの話の続きをするが、頭の中は、誰もがみなカツラで満たされているに違いなかった。
そこで、スタッカートの父親も、お迎えにやってきた。
彼の頭もまた、寂しい風情だ。
「おとうさーん」
スタッカートか、父親に抱きつく。
「あ、オレオくんのお父さんだ!」
そう言って、スタッカートは、テヌートの父親にも抱きつく。
すると、スタッカートは、彼の頭からカツラをもぎとった。
誰もが呆気に取られていた。一人で騎馬戦でもしているかのように、スタッカートがカツラを取る姿は鮮やかだった。
「キリコちゃん、勝手にとっちゃダメでしょう?」
バキューム先生が黙っているので、パピコが口を出した。
「これキリコのお父さんにちょうだい」
スタッカートは、自分のお父さんの頭に被せようとした。
「キリコのお父さんの方がはげてるから」
スタッカートのお父さんも、あまりのことに絶句している。
すると、テヌートのお父さんが、顔を真っ赤にして、体をわなわな震わせながら、帰って行った。
テヌートは、お父さんと一定の距離を保ちながら、歩き出す。
「これ、ありがとねー」
カツラを振りながら、カツラの礼を言うスタッカートの明るい声が、天まで突き破っていった。
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