雨垂れの時間

「テヌートとスタッカートに会うのがとっても楽しみなの」


 パピコの教育実習一日目の感想だ。

 アタルはパピコのダイエットのコーチを当面の間自粛するため、空いた時間を散髪に当てていた。


「我慢できずに切っちゃったのね」


 パピコは人差し指でいとおしそうにアタルの前髪を撫でる。


「本当は、ベートーベンみたいな感じにしたかったんだけどね」


 アタルが頬をリンゴ色に染めて言った。


「美容師さんに何て頼んだの?」


「エリーゼのダイエットに付き合っていた頃のベートーベンにしてください」


「嘘ばっかり」


 パピコがシューズを履く。


「ほんとにダイエットに付き合ってやってたかもしれないだろ?」


 パピコはつまらぬことを口にするアタルを無視して出掛けた。


 青い空に感謝をしながら、幼稚園に行く。

 お天道様、ありがとう! 子どもたちが今日も外で元気に遊べます!

 子どもたちのキラキラした瞳を見るのが、パピコの幸せと直結していた。


 ところが、パピコの感謝の時間が肩透かしに終わる。

 バキューム先生が、皆の前で、残念ながら今日は外遊びができないことを伝える。


 これにはパピコも、子どもたちとともに、ブーイングをしようかと前のめりになった。

 ところが、誰一人として、「えー」といった、否定的な声を上げなかった。

 かと言って、「はい」と返事をする者もおらず、黙りこむ子どもたちを、パピコは不気味に感じた。


「ねえ、何で誰も、嫌って言わないの?」


 パピコは、自由時間に、ひらひら組で一番のしっかり者、タツキに聞いた。

 タツキは、バキューム先生の方をちらちら見て、なかなか言おうとしない。


「大丈夫、秘密にするよ、お約束」


「ほんと?」


「うん」


「あのね、嫌って言ったらいけんのんよ」


「何で?」


 タツキは首を捻る。子ども自身も、よく分かっていないようだ。


「嫌って言ったらどうなるの?」


「前ね、キリコちゃんがね、嫌って言ったらね、外に出されてた」


「そうなんだ」


「うん、あとね、キリコちゃんだけね、外遊びがダメだって言われてた」


「そうなんだ。教えてくれて、ありがとうね、タツキくん。よく覚えてて、賢いね」


「うん。先生、もういい?」


「いいよ、遊んでおいで」


 タツキが仲良しのサチ子に手を引かれておままごとに投入される様子を見届けていると、お漏らしをした子供の世話をしていたバキューム先生が、カリカリしながらパピコに指示を飛ばしてきた。


「パピコ先生、ぼーっとせずに、手伝いなさい」


 アシスタントの先生に、パピコと一緒に着替えをさせるように指示をして、バキューム先生はケンカをし始めた子供の仲裁に入り始めた。


「どう? なかなかハードでしょ?」


 アシスタントの先生が、パピコに言った。


「そうですね。結婚行進曲だと思って聞いたら、葬送行進曲でした」


「ん?」


 アシスタントの先生であるウララ先生の反応を見て、パピコはしまったと思った。

 つい、内輪の人間にするような話し方をしてしまった。

 ごまかすように、子どもたちの話をする。


「今日はスタッカートとテヌートに、目立った動きはないですね」


「は?」


 ウララ先生のリアクションに傷つきながら、パピコはこれ以上地雷を踏むまいと、黙りこむ。


 ウララ先生も、黙ってパンツを履かせる。

 パピコは、黙ってパンツを見つめるしかなかった。


 息がつまる。

 子どもがおニューのパンツで機嫌よくお友達の輪に加わるのを、パピコもついていった。

 すると、背後からバキューム先生の不機嫌な声がした。


「終わりました?」


「はい」


「パピコ先生、さっき、タツキくんに外遊びの件を聞きましたね?」


「・・・裏は取れてるんですか?」


 パピコに自白する気はない。


「私はタツキくんにいちいち聞くような嫌らしいことはしません。あなたを見ていればわかります。私が外遊びをしなかったのは、今日は有害物質が多いからです」


 バキューム先生が、スマホをパピコに見せてきた。

 そこに表示されていたのは、ウィルスマークだった。


「私はね、花粉やPMの情報を毎日チェックして、有害物質が飛んでいない日に子どもらを外に出してるの。この子たちには、悪いものを体に入れてほしくないから」


「そうだったんですね」


 パピコは素直に感心した。


「あと、パピコ先生の動きについてなんだけど」


 パピコは背筋を伸ばして聞く。


「その場に突っ立ってるのは、なしですよ? 子どもたちにどんどん関わってください。ただ、一人の子どもと関わるのはダメ。全体に目を配ってください」


「はい」


 その場面だけを切り取られて怒られるのは、心外だったが、パピコは言葉を飲み込んで返事をする。


「ウララ先生には、オレオくんとキリコちゃんを見るように言ってあるので、私たちは全体を見られるように鍛えていってください。以上!」


「はい」


 こうしてパピコとバキューム先生は、バラバラに散って、各々のポジションについた。


 パピコはおままごとを眺めていると、パピコと同じ悩みを持っていそうな、ぽっちゃりなサトミちゃんから、


「先生もおままごとに入って」


 と言われた。子どもたちから役の選択肢を提示され、一番楽ができそうな、猫を選んだ。


「にゃんちゃん、さんぽいくよ」


「・・・いや」


 パピコは、つい日本語で拒否反応を示してしまった。

 おままごとまでダイエットはしたくない。

 ものぐさタイプのパピコにとっても、散歩もダイエットのうちなのだ。


「にゃんちゃんが、しゃべった」


 子どもたちが笑っている隙に、眠りについてしまうことにした。

 さっさと寝てしまおう。


「いーれーて!」


 パピコの耳元で叫ぶ声がした。

 ぎょっとして目を開けると、スタッカートだった。


「え・・・」


 子どもたちが、目配せする。


「でも、キリちゃんが入るんなら、バブちゃんよ」


 パピコには複数の役柄を提示したお父さん役の男の子が、スタッカートには、赤ん坊の役を押し付ける。


 この一方的な要求に、スタッカートがどうするのか見ていると、彼女は少し考えた後、要求をのんだ。


 なんだ、要支援の幼児と聞いていたが、今のところ皆とうまく調和できているではないか。


「合言葉を答えたら、いいよ」


 サトミが言った。


「合言葉って、先生は顔パス?」


 サトミが首を捻るのを見て、パピコはもう一度言い直した。


「先生が入った時には合言葉なかったよね?」


「先生はいいんよ!」


 いくら親近感が湧く条件が自分に備わっているからも言って、えこひいきはよくないぞ、サトミ。

 パピコは、自分もスタッカートと一緒に合言葉を考えると言った。


 すると、思わぬ展開に、子どもたちは困惑の表情を浮かべる。


 スタッカートは当てずっぽうで、どんどん当てにいくが、合言葉たちがカタンと音を立てておままごと軍団が作るバリアから跳ね返ってくる。

 パピコの二重顎に三連続で当たった。


「ヒントちょーだい」


「ダメよ! みんなヒントなしでやったんだから」


「はーおまえふざけんなよ!」


 スタッカートが、俺がボスだと言わんばかりの、お父さん役の男の子の胸ぐらを掴む。


 お? これか?

 今が支援が必要な時なのか!?


「てい! 誰だい、お友達の胸ぐらを掴むのは」


 パピコは、正義のヒーローになりきって、スタッカートに言葉を投げかけた。


「こいつなんか、友達じゃね~し」


「嫌がってるのが、わからないかい?」


 なぜか、ババくさいヒーローになってしまった。


「うるせー、ババー」


「その手を離しなさい」


 スタッカートは、男の子の胸ぐらから手を離し、パピコのスネに蹴りを入れて、走り回る。


「先生、大丈夫?」


 サトミが、やはり親近感からか、悶絶するパピコに一番に声をかけてくれた。


「隠してたんじゃが、実はわしは、骨粗鬆症でな」


 ババくささを自覚したパピコは、最後までおババヒーローを全うした。


 バキューム先生が近づいてくる。

 パピコの頭の中で、雨垂れが流れ始めた。

 

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