テヌートとスタッカートの時間
パピコが学費の高い音楽大学にすんなり入学を決めたのは、小さい頃から憧れていた幼稚園の先生になれるからだった。
短大で保育科に入らなかったのは、言わずとも分かるだろう。
今、ぐぬぬと呻いたこの炭水化物メロディー初心者諸君のために特別に説明すると、パピコは音楽と炭水化物からは切り離せない生態なのだ。
今日は、その教育実習に来ている。
最初にパピコが驚いたのが、膨大な書き物。
毎日、保育目標を立て、終われば実践記録を書かなければならなかった。
その労力たるや、毎日体重や、食べたものを記録するレコーディングダイエットとは、比べ物にならない。
教育実習に向けての準備の忙しさで、ランニングがおろそかになっているにも関わらず、パピコはどんどん痩せていった。
ダイエット記録に目を通すアタルも、この結果に手放しには喜べないようだった。
パピコが勘違いしないようにと、この結果を必死で弁明する。
「ゲッソリ痩せてってるんだから、危機感を持て! 健康的に痩せないと、意味がないぞ」
「まぁ、この実習が終わったら落ち着くかな。それまでランニングの再開は待ってほしいんだけど」
「俺も鬼じゃないからな。今はサラダとコーヒーのダイエットだけやってればいいさ」
そう言ってアタルは、せっせとお弁当箱にサラダを入れ、水筒にコーヒーを入れてパピコに持たせた。
今日から一週間お世話になる幼稚園は、家から徒歩十分で着くところだった。
建物には動物の絵が描かれ、パピコは思わず、
「おいしそう」
と呟くと、保護者らしき人物から、怪訝な目で見られた。
幼稚園に入る。園児が通園前に呼ばれたため、まだ子供が来ていなかった。事務室に挨拶に行く。丁度、中年女性が事務室に入ろうとしているのが見えたので、忍び足で近づき、背後に回って息を吸い込むと、とびきり元気な声で挨拶をする。
「ごきげんよう!」
初めが肝心、とばかりに、パピコは上品な音大生をちらつかせる。
「ひぃぃぃ」
中年女性があまりにもグッドなリアクションをしてくれるので、パピコが作り込んだキャラが早くも崩れそうになる。危ない、危ない。
「あなたの性格、よろしくて?」
ズレた眼鏡を直しながら、中年女性が不審な目をパピコに向ける。
「パピコさん、挨拶はおはようございますで統一してくださいね」
奥の席から園長先生が出てくる。
園長は、色黒で四十代くらいの優しげな男だった。
薬指には指輪が光っているが、内輪の人間との不倫の香りがした。
パピコは園長から、職員に紹介をされた。
紹介も、一人ずつ自己紹介をしてくれた。
一人、パピコとそう年が変わらなさそうな、控えめな先生がいた。
この子と園長が、花園の世界にいるんだろうか、と勘ぐる。
先ほどパピコが後ろから忍び寄った先生は、バキューム先生と言った。あだ名かと思ったが、本名だという。
口に手を当てて驚いていると、睨まれた。
パピコはバキューム先生のクラスに配属されることになった。
年長さんで、ひらひら組だった。
幼稚園バスで、園児に迎えに行くのが、最初の仕事だった。
「おはようございます!」
バキューム先生は、送り迎えの保護者に挨拶を繰り返しては、園児をバスに乗せていく。パピコも、バキューム先生に倣って、見よう見まねで頭を下げる。
パピコを初めて見た園児たちは、大興奮だった。
「でけー」
「可愛い」
「どうも、キラキラ成分配合の、パピコです」
パピコは一人ひとりにきめ細やかな対応をする。
「パピコ先生、タッチー」
パピコにタッチを求める子どもに応えると、皆がタッチを欲しがった。
パピコはなんだか自分が芸能人にでもなったかのような気分になる。
「パピコ先生、一人ひとりに自己紹介をなさるおつもり?」
バキューム先生から、前に立ってマイクで自己紹介をするよう促された。
「どうも、キラキラ成分配合のパピコです」
バスがひっくり返りそうなほどの反響の大きさだった。
パピコはバスガイドをしてやる。園児は大喜びだったが、バキューム先生からマイクを取り上げられた。
「そんなことはしません」
バキューム先生は、前に前に精神の若手は嫌いなのだと、パピコはへしゃげた心に空気を入れる。
幼稚園につくと、さっそく朝のお遊戯が始まる。
バキューム先生のピアノに合わせて、園児が体を動かしながら、歌を歌う。
バレリーナのように、くるくると回るパピコを見て、笑い声が溢れる。こういうのがバキューム先生は嫌いなことを分かっていても、かかとは地べたにつかない。音楽が流れると、パピコの体は呼応してしまう。
バキューム先生が咳払いをする度に、パピコは足を広げて、飛んだ。
園児の声が、小鳥のさえずりに変わる。
花畑の中の少女。バキューム女神が花冠をかぶせる。
あはははは
うふふふふ
パピコのお遊戯の舞は、子供の視線を独占することとなった。音楽が流れると人格が変わることに、こんなに好反応を得たことはなかった。バキューム先生への罪悪感はなかった。
「先生、タッチ」
またもやタッチの時間になる。
このクラスでは、良いことがあると、タッチをする習慣があるようだ。
「オレオ、タッチしないの?」
長身の女の子に、オレオと呼ばれたおっとり系の男の子は、
「する」
と言って、パピコのお尻をタッチした。
「ひゃんっ」
「キリコも!」
オレオを見て、キリコという瞳の大きい女の子が、パピコにかんちょうをした。
「じゅくし!」
「ぎゃふっ」
バキューム先生が、金切り声をあげる。
オレオとキリコを呼び出し、説教をする。
手短に説教を終え、パピコに謝りに来させ、てきぱきと問題を処理したバキューム先生が、このクラスでは、彼ら二人が、支援が必要な子たちだと教えてくれた。
二人とも観点が皆と違うため、本人たちが困らないよう、支援をしてほしいと言われ、パピコは緊張の面持ちで返事をした。
オレオくん、キリコちゃん、課題をくれてありがとう!
パピコは、オレオをテヌート、キリコをスタッカートと名付けることにした。
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