老け込む時間
逮捕されたクリスマスイブに、サリーは黙秘権を行使した。
当然、鑑別所に寝泊まりすることになった。
クリスマスには、生気が抜け、飲食もせずに、呆けていた。
パピコのことを話そうとすると、言葉よりも涙が出てくるのだった。
言葉を失ったサリーは、囚人と一緒にクリスマスイベントに3月させらりれた。外部から、歌や漫才を披露しに来てくれるらしく、刑務官からは、半年に一度の、刑務所がほっと一息つける時だと言われた。
サリーが集会所に入った時には、囚人が集まっていた。全部で五十席ほどだろうか。どうか振り返らないで。そう願いながら、サリーは忍び足で椅子までこぎつけて、物音を立てないよう、ゆっくりと、空いている端の席に座る。
前方には刑務官が立っている。
なんとも独特な雰囲気で、空気が濁っているような気がした。
囚人の雑談を聞くのは新鮮だった。会話の中にクスリの隠語が敷き詰められているかと思えば、病気自慢が始まった。人類共通の悩みがあるのは、幸せなことかもしれない、とサリーは思った。
「プログラム一番、きよしこの夜」
刑務官の中年女性が、司会進行らしい。刑務官が一際大きな拍手を送る。囚人はステージにガンを飛ばす。
サリーはこれから出てくる出演者を気の毒に思った。
動かなかったサリーの心が、ゆっくりと、確実に動き始める。
ステージに向かって拍手を送る。
ステージに現れた人物を見て、拍手を送る手が止まる。
そこにはサリーの心の動きを沈めた張本人がいた。
毎年、クリスマスになると自分だけのために歌ってくれた歌を、囚人に歌っている。
彼女の表情を見るだけで、彼女の心情が手に取るように分かる。
彼女と一緒に暮らしていた期間はずっと、色んな感情を共有してきた。
けれど、今は違う。
そう思いたかった。
だけど、歌を途中で止めて、自分のところに向かってきた彼女を見て、サリーは流れる涙を抑えきれずにいた。
お前は今、誰と感情を共有しているんだ?
俺は今でも。
パピコが刑務官に取り押さえられ、外に連れ出されていく。
騒然とした雰囲気の中、次のプログラムに移った。
パピコの「きよしこの夜」はなかったことにされている。
クリスマスイベントが終わり、サリーはパピコについて話した。
ステージに立っていた女性がパピコだということは、なんとなく伏せておいた。
自宅に帰ることが許され、サリーは新幹線に飛び乗り、何日かぶりに広島に帰郷した。
実家に戻ってくるとは思っていなかった両親は、サリーを驚かせた。
「どちら様ですか?」
「は? 俺だよ、俺」
「父さん、警察に電話して」
なんと、サリーは実の両親にオレオレ詐欺を疑われた。
サリーは唖然としながらも、健気にあなたたちの息子だと釈明する。
証拠を欲しがる両親に、サリーは家族でしか知りえない情報を提示する。サリーはズボンをずらしてちらっとお尻を二人に見せる。
お尻を見た両親は、息を呑んだ。
「まさか、本当にお前なのかい?」
「ああ」
サリーのお尻は、幼少期に父が噛んだ跡が残っていた。
寝ぼけた父が、母のお尻と間違えて、サリーのお尻を思い切り噛んだのだ。
「お前、一気に老け込んで、大丈夫か?」
サリーも鏡を見て、驚いた。
「これが、自分・・・?」
目もと、口元のしわが目立ち、白髪まで生えていた。
「玉手箱でも開けたんか?」
おとぎ話の品物があるわけないが、父の顔は真剣だった。母も笑わない。
「母さん、父さん」
「なんだ?」
「俺、今から正社員の仕事を探すよ」
「どうしちゃったの、あんた」
狼狽する両親をよそに、就職活動を始めた。
明日からにでも働き始めたかったため、すぐに返事がもらえる介護の仕事に応募した。
とんとん拍子に話が進み、サリーは老人ホームで働き始めた。
サリーは生まれて初めて、一人暮らしを始めた。
思った以上に仕事はハードで、家に帰ると倒れこんだ。母は広島からおでんやおむすび、焼き茄子を作りに来てくれたり、掃除をしに来てくれた。
シワの目立つ手で、洗い物をしてくれる母を見て、サリーは何度も自分を奮い立たせた。
老人ホームでは、職員の関係は良好で、一致団結していた。
老人は、色んな人がいたが、サリーにとって気になる人がいた。
もちろん、恋愛対象として、ではなく、心配して気にかけている、ということだ。
その人は、認知症も発症しておらず、介助が特別必要なわけでもない。
だが、人使いが荒いため、職員や仲間たちから遠ざけられて、いつも一人ぼっちなのだ。
わがままで自分中心。
子供であれば、指導ができるが、相手は人生の大先輩。
上から目線で注意などできるはずもなく、我慢強く付き合うしかないのだが、彼のことを本当の意味で理解してくれる者は、ここにはいないことをサリーは感じていた。
彼の息子さんは、よく老人ホームに来て、彼の面倒を見ていた。
ある時サリーは、老人ホームに顔を出した息子さんに、勇気を出して、彼の交遊関係が希薄であることが気になっていることを話した。
息子さんも気になっていたらしく、サリーが気にかけていることを喜んだ。
「ワガママだけど、本人も気づいてるんだと思いますよ。平和主義だからこそ、人とぶつかるまいと、親父の方から人を遠ざけてるんだろうな」
息子さんの話を聞くことができてよかった。
「大原さんにお友達ができるよう、支援していくのでよろしくお願いします」
その日からサリーは、毎日誰よりも大原に話しかけることを決めた。
「最近、大原さんにパシられてますね、サリーさん」
勤務終了後、着替えている時、隣のロッカーの同僚に声をかけられたが、サリーは照れたように、頬を染めながら言った。
「パシられることには慣れていますので」
「可愛い、サリーさん」
ふわふわしたマシュマロ系の可愛い小柄な女の子の同僚に言われ、林檎のようにサリーの頬が染まりきる。
「佐藤さんの方が可愛いですよ、東京ランダースのゴールキーパーの向井系で、僕のタイプです」
「まぁ!」
サリーとしては最高の誉め言葉だったが、佐藤はむっとしている。
「そう言えば、大原さんの息子さんのつてで、今度音楽ボランティアの方が来られるみたいね」
先輩社員が話に割って入ってきた。
サリーは嫌な予感がした。
「確か大原さんって、世田谷区の方でしたよね?」
「そうだっけ?」
先輩からは有益な情報は得られそうにない。サリーは胸騒ぎが的はずれなものであることを願うしかなかった。
当日になって、サリーの嫌な予感が当たっていることがわかった。
ステージには、刑務所で見た時よりも、更にほっそりとしたパピコが立っていた。
しかも、隣にはあの時、サリーと手を繋いで歩いていた男がいるではないか。
髪を遊ばせて、サッカー少年のような爽やかな風貌なのに関わらず、彼のフルートは、繊細で優しく、癒しの音色を奏でていた。
フルートとパピコの歌は、美しいハーモニーで、聞く者を虜にした。
心のトゲが、まぁるくなっていくようなハーモニー。
眠気を誘うような、子守唄のようなメロディー。
サリーは目をつぶる。瞼の裏側には、タンポポを拾って、茹でている一人の少女。何度も味見をして、味付けを変えて、弱っている犬に食べさせる。犬の鼻にはピアスがあった。少女はそのピアスにキスをする。
そっと瞼を開けたサリーは、息を呑んだ。
サリーの目の前で、大原と、隣の老婆が、手と手を握りあっていた。人の温もりを感じずにはいられない歌声にフルートの音色。
「サリー、音楽はね、言葉よりももっと、人の心の深い部分に訴えられるんだよ」
パピコとは現実から三センチ浮いたような会話が多かったが、この時は珍しく、パピコが現実すれすれの話をしていたことを思い出す。
本当だな、パピコ。
サリーは自分の涙腺が弱くなっていることを実感する。
でも、もう泣かない。
サリーは込み上げてくるものをぐっと堪える。
視線はパピコから外れなかったが、彼女が気づくことはなかった。
老けすぎたかな。
サリーは自分の容姿の深刻な変化を、ポップに捉える。
音楽って、すごいや。
歌の力って、こがにすごいんか。
パピコからの一足遅いクリスマスプレゼント。
すれ違っているのに、今までよりもかけがいのないプレゼントだったかもしれない。
演奏が終わると、老人らがスタンディングオーベーションをした。
パピコと男は、手を取り合って感激している。
分かっていても、サリーは拳に力が入る。
その時、大原が、
「しょぼ」
と呟いた。
隣の老婆が微笑みかける。
「あんたの言葉、わしが翻訳しちゃる。ブラボーじゃな?」
老婆は演奏が終わっても、大原の手を離さなかった。
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