純文学の時間

 木造アパートの階段をかけ降りる。

 下が丸見えなので、ここに住み始めた頃は、手すりを掴まないと、上り降りができなかったが、今では雪が積もっている階段をかろやかに降りられる。その姿は妖精のようだ、とパピコは自分で思っていた。


 アパートの軒先から垂れる氷柱を見て、パピコは寒さを視覚で感じとる。


 急げ。

 パピコは白い息を吐く。

 歯医者の予約時間まで、あと15分。

 アパートから、歯医者まで、歩いて15分。

 ギリギリだ。


 ただ、雪道を歩くとなると、もう少しかかるだろう。


 今年の初雪は、例年より何週間も早い。

 なのでパピコは、こうなることを見越して早起きすることができなかった。

 そういえば夕べ、そんな話を、アイロンをかけるパピコの横でアタルがしていたような気がする。

 つい、いつものように片手間にアタルの話を聞いていた。


 アタルは寝坊したパピコに、憎まれ口を叩くことはなかった。

 アタルは、パピコが歯医者に行くことは、よく思っていないからだ。


 パピコが歯医者に行くことは、ずっと秘密にしていたのだが、数日前にうっかり口を滑らしてしまった。


 口論も雪解けを迎え、歯医者の送り迎えをアタルが申し出てくれたが、すぐそこだから大丈夫だとパピコは断った。


 それがつい先ほどの話だ。


 息が苦しくなってくる。

 だからといって、スピードを緩めることはできない。

 診察台に寝転ぶまで、スピードを落とすわけには行かない。


 歯医者の裏手にある郵便局が見えてきた。

 ようし、あと少し。

 パピコは、膝のあたりまでしかない小さな靴箱に、左手で緑色のスリッパを取り、右手で自分のブーツを押し込み、丸眼鏡をかけた色白の受け付けのお姉さんに保険証と診察券をスライディングシュートで刺すようにして私ながら、何くわぬ顔で診察台に上がる。もちろん、その間は息切れ一つしないで。


 滑らかなシミュレーションとは裏腹に、パピコは足下に、何かが引っ掛かるような違和感を感じた。

 見ると、右足の靴紐がほどけていた。


 パピコは愕然とした。

 靴紐がほどけていたことよりも、自分がシューズを履いていたことに驚いていた。


 ブーツを履いてくるつもりが、いつもの癖でシューズを履いてきてしまったようだ。

 パピコは慌ててシミュレーションで、ブーツの部分をシューズに修正する。コンマ何秒か、早くなった気がした。


 ふっと、笑みがこぼれる。

 紐が気になるが、パピコはお構いなしに走った。

 今はそれどころではない。立ち止まって紐を結ぶ時間などない。

 その時、誰かに呼び止められた。


 パピコが振り向くと、見知らぬおじいさんが、一軒家の前で椅子に座っていた。


「待て、ちゃんとその靴紐直してから行け」


「ちょっと今急いでて」


 パピコは、少しドキドキしながら言った。

 すぐそこなんだ、ほっといてくれ、という気持ちがパピコの中にあった。もっというと、親知らずの抜歯の予約をしておいて、遅刻をするわけにはいかないという責任感もあった。


「みっともない、今すぐ結べ」


 老人が間髪いれずに怒鳴る。

 通行人が、パピコの方をちらっとみる。


 恥ずかしい。パピコは顔が熱くなるのを感じ、下を向いたまま、しぶしぶ靴紐を結ぶ。


 ありがとうございます。

 本来ならそう言うべきところを、パピコは無視するようにして、感じの悪さだけを残し、老人の元から走り去った。


 挨拶する時間がもったいない、というよりも、パピコの心境として、その老人の顔も見たくなかった。


 それからすぐに歯医者に着いたが、予約時間を少し過ぎていた。

 シミュレーション通りに体が動かず、パピコは冴えない顔して歯医者に悪い運気を運んでいるような気がした。妖精失格である。


 一時間後、抜歯が終わり、麻酔が切れて、感じたことのないような歯痛に襲われた。


 帰りは、行きとは道を変えた。あのおじいさんに会いたくなかった。


 パピコは、家に帰って歯医者での格闘話はアタルにしたが、あのおじいさんの話はしなかった。嫌な思いはしたものの、わざわざ言うまでの話ではない気がしたからだ。


 それからパピコは定期的に、抜歯した部分を消毒してもらいに歯医者に行くと、何度か徘徊中のおじいさんを見かけたが、パピコが挨拶をすることは一度もなかった。


 その時の感情が薄れ、パピコは何度か声をかけてみようかとも思うこともあったが、今さら声をかけるのも変だよな、と思い、素通りが常となっていた。


 クリスマスが近づいてきたある朝、一枚のハガキがポストに入っていた。


 町内に住む老人の訃報だった。


 この時期になるとこういったハガキが多くなる。

 何気なく住所を見ると、歯医者の辺りだった。

 いつもはすぐ捨てるハガキも、パピコはその時だけは胸騒ぎがした。手が勝手に、スマホで住所検索をしていた。


 スマホを持つ手に、じんわりと汗がにじむ。


 あの老人だった。

 この訃報は、あの老人だったのだ。


「そんな・・・」


 パピコは暫くの間、スマホとハガキを持ったまま、立ち尽くしていた。

 そこに、妖精の面影はなかった。

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