第3話 初の体験版

「目を開いて構いませんよ」


 ミオの澄んだ声色が俺の耳を叩く。

 ゆっくりと目を開くと――そこはアンティーク調な喫茶店ではなく、緑と石畳が俺の目に飛び込んできた。

 

「え! ほ、本当に!?」

「どうかなさいましたか? ご希望通りになっているはずですが……」


 ミオは少しだけ首をかしげると、無表情に呟いた。怜悧な顔もあいまって、まるで俺の方の常識がおかしいように思えてくるぜ……。

 ここが異世界なのかそうでないのかはまだ分からない。しかし、少なくとも目をつぶって目を開けたら、景色が一変していたことは確かなんだ!

 

 俺は半信半疑のまま、左右を見渡す。

 俺の立っている場所は古代ローマにあるような石畳の街道の上で、この道は地平線の向こうまで続いている。

 右手は草原が左手も草原……おお、人が何人か見えるな。でもこれって……。

 

 何かおかしいぞ。

 

「良一さま、時を再開してもよろしいでしょうか?」

「やっぱり、これって」


 そうなんだ。ガラの悪い数人の男が一台の馬車と赤毛の女の子を取り囲んでいる。そこまではいい。いや状況的によくはないが、俺の望んだシチュエーションだし、そこまではいい。

 しかしだな、男の一人が足をあげたまま止まっているんだよ。

 

 よく見てみると、草木も風に吹かれて横に倒れたままだし、足をあげたまま止まっている男以外の人間も、誰一人みじろき一つしないんだ。


「はい。時を再開すると同時に私は戻りますのでご了承ください」


 どこかずれた回答をしてくるミオだけど、彼女にとっては「異世界逝き」のことはいつもやっていることだろうが……俺にとっては初めてのことなんだからな!

 仕事でもそうなんだよ。業務をこなしている人には当たり前過ぎて、新人にとって説明が足らないことがある。何度それで苦労したことか……。

 いかんいかん。今は仕事のことなんて忘れて「体験」するんだ。

 

 よっし。

 

 時が止まっているなら幸いだ。

 俺の頼んだ内容と合っているか確認しようじゃないか。

 中世ファンタジー風ゲームっぽい異世界を希望したけど、道と草原だけだと分からないなあ。確かめるには街に行かないとだな……。

 そうか、街、街だよ! 実際この目で見たら感動すること間違いなしだ!

 

 おっと、思考がそれてしまった。

 シチュエーションはさっき確認したとおり問題ない。

 今にも襲い掛からんとする野盗と襲撃を受けた女の子で会っている。

 俺の能力は凄腕の格闘スキルにしたんだけど、実際戦ってみるまで威力は分からないかな。

 

 よっし。

 

「ミオさん、再開してください。お願いします」

「承りました。それでは、『体験版』をお楽しみください」


 ミオは両手でスカートをつまむと上品にお辞儀をし、忽然と霞のように姿を消す。

 

 ◆◆◆

 

――風が俺の頬をなでつける……どうやら時が動き出したようだ。

 そう、彼女の姿が消えた途端に、世界が動き出した。

 

 風が吹き荒れるだけではなく、馬車をはやし立てるガラの悪い男たちのがなり声かここまで聞こえてくる。

 一方、馬車の幌を押しつぶさんばかりに、後ろへと後ずさる赤毛の少女……。

 

 全てが動き出した。俺の望んだシチュエーション通りに!

 異世界に転移すると、何故か遭遇する野盗たちに襲われようとしている女の子。そこへ、チートな格闘技術を持った俺がつええええして彼女を救う。

 するとだな……女の子は俺に惚れて、この世界の常識やらを教えてくれた上に生活の世話までしてくれるってわけだああああ。うっひょー。

 場合によっては、一夜目からむふふううな展開もありえる。七日あるからな……逝けるかもしれんぞ!

 

 大股でさっそうと、偉そうに大物ぶって肩をいからせながら野盗どもへと歩いていくと、胸をそらし大きく息を吸い込む。

 

「おい、お前らそこで何をしている!」


 俺は自信満々に野盗どもへと大声をはりあげた。

 

「なんでえ、お前は! しかし、見たからには生かしちゃおけねえ。この少女ガキは後だ。まずそいつをやっちまいな!」


 お頭らしき髭もじゃの中年男が手下どもへ顎で指示を出す。

 彼の声に応じて、手下どもは腰から三日月刀シミターを抜き放つ。


 武器といい、見た目といい……典型的な序盤で主人公にあっさりと倒される奴らだな。

 なんて思いながら、拳を構えようとしたが、大問題発生だ。

 

 太陽の光に反射して鈍く輝く刃が目に入ると、恐怖から体が硬直してしまい身動きが取れない。

 更に、歯もガタガタと揺れてくるし……。

 

「戻ります! ミオさん!」


 俺はなんとか声を絞り出すと、視界が急に切り替わる。


 ◆◆◆

 

「コーヒーをどうぞ」

「ありがとうございます」


 そう、俺は喫茶店に戻ってきた。ミオに呼びかけるとすぐに戻ることができたんだけど、物騒な状況から抜け出せた安心感からかしばらく膝が笑ってまともに歩くことさえできなかった。

 ぜえぜえと荒い息をあげながら椅子へ座り込むと、ミオがコーヒーをコトリと机の上に置いてくれた……というのが今の状況というわけだ。

 

 ダメだ。小説の主人公のように、いくら戦闘力があって相手が雑魚だとしても体が動くわけがない。

 だってさ、いきなり向こうはこちらをヤル気で剣を抜いてくるんだぜ? しがないコンビニバイトなんぞに対処できるわけねえだろお。

 やはり、いきなり俺つえええできたりするのは物語の中だけの話なんだって。体験しておいてよかったぜ……。

 

「『体験版』はいかがでしたか?」

「そうですね。二度と変な妄想をしないで済みそうです」


 明日から妄想しながら歩くこともなくなりそうだ。その点だけは感謝? なのか……? び、微妙だ。

 

「それは良かったですね。これからどうされますか?」

「そうだなあ……」


 うん、決めた。

 俺は無表情で首を傾げるミオへ言葉を返す。

 

「とりあえず、働いてからまた来るよ」

「そうですか、ではこれを」


 ミオが手を振るとチリンという音を立てて何かが机の上い転がった。

 ええと、これは……銀色の錆一つ浮いていないアンティーク調の呼び鈴? ベルかな。

 サイズは手のひらくらいだ。

 

「これは?」

「ご来店の前にそのベルを鳴らしてください」

「了解」


 いつの間にかミオへ敬語を使うことをしなくなった俺は、ゆっくりとコーヒーを楽しんでから店を後にした。

 よおし、次の体験版のために働くとするかあ!

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