第17話 乙葉の災難
床下に潜伏していた乙葉は、赤土の上を這って換気口まで移動して外の様子を伺っていた。
玄関は右手にあり換気口からは二メートルくらいしか離れていないので、時折少年たちが出入りをしているのが確認できた。少年たちの中にはホームセンターにいた双子に似た横顔も見えたので、恐らくあの時と同じ不良グループなのだろう。
少年たちはいくつかのグループに分かれて行動しているらしく、食堂で非常食を漁って味や食感の感想を笑いながら言い合う者もいれば、廊下を走り回って各部屋を巡り下着や制服を見つけたと騒いでいる者や、ドラム缶風呂に入っているらしい者まで居た。
全員で何人居るのか検討もつかない程の足音や笑い声が床板を通して聞こえてきて、乙葉はみんなの大事な場所が、思い出が、土足で蹂躙されていくことに溢れる悔し涙を我慢出来なかった。
しかし、いま泣いていても意味はない。
もしこのまままどか達が帰ってくれば、この不良少年たちの餌食にされてしまうことは明白だった。
それを思うと違う意味での恐怖がこみ上げてきて、乙葉の小さな身体は震えた。
しかし同時に腹の辺りから熱い使命感というか責任感のようなものがこみ上げてくる。
ドラッグストアまでの道のりは国道をまっすぐ行くだけだ。ここから脱け出して国道に沿って歩いていればまどかたちと鉢合わせする確率は高い。そしてあとはそのまま皆一緒に逃げればいい。
乙葉は換気口の鉄格子の隙間から外の様子を伺った。陽が沈んで辺りはすっかり暗くなっている。正確な時間はわからないが、恐らく五時は確実に回り六時前後というところだろう。
まどかたちの帰りが遅れているのは不幸中の幸いで、今ならば全てが間に合う。失うのは住み慣れた第一さくら寮だけで済む。
そんな思いが乙葉をじりじりと焦らせ、行動へと駆り立てた。それに鉄格子の横の壁に貼ってある、恐らく椿が書いたと思われる「止め具は全て外してあります」というメモにも背中を押された。
しかし思い立ってそっと鉄格子に指をかけて押して見るが、びくともしない。メモ書きの通りに金具は全て外されているので、錆か建物自体の歪みのせいかもしれない。
乙葉は小さい身体を生かして狭い空間で器用に姿勢を変えると、右足で鉄格子を押し出すように蹴ってみた。しかしやはり動かない。そして今度は半ばやけくそ気味に連続で蹴ってみる。どうせ内履きのスリッパしか履いていないので音はしない。足の裏が痛いだけだ。
何度か蹴っているうちに鉄格子の枠が外側へと動いていき、最後はリュクサックをクッション代わりにして思い切り肩で押し出してやった。
そっと鉄格子を地面に置いて、するりと中庭へと這い出す。周囲に人の気配はない。建物の中から下品な騒ぎ声と笑い声が聞こえてくるだけだ。
乙葉はリュックを掴むと中腰になって門を目指した。建物から三メートルも離れれば姿は霧に紛れて見えなくなる。
足音を殺し、霧を掻き分けて門を目指した。
すぐに霧の中からバリケード代わりのスクールバスが現れて、バスを迂回して門へ辿りついた。そして鉄扉の閂を音を立てずに慎重に外していく。背後の霧の向こうから聞こえる男たちの下品な声に変化はない。
乙葉は鉄扉をそっと開けた。
しかし同時に防犯ブザーがけたたましく鳴り始めた。
その瞬間乙葉の小さな身体は弾かれたように坂道へ飛び出していた。
恐らく自分たちが侵入者対策として罠を設置していたように、不良グループはまどかたちが戻ってきたらすぐわかるように扉に細工をしておいたのだ。
背後から男たちの怒声と足音が聞こえてくる。
乙葉は前だけを見て無我夢中に霧の坂道を駆け下りた。
国道にまで出れば何とかなる。
右へ逃げたのか、左へ逃げたのか、それとも国道を横断したのか、霧に紛れて姿を隠せば少年たちは絶対に見失うはず。
だから乙葉は力の限りに走った。
しかし左足のスリッパが脱げたかと思うと、一気にバランスを崩した。
「きゃっ!」
小さい身体がアスファルトに叩きつけられて一度バウンドをしてから坂道を転げていく。
肘や膝や全身のあちこちがまるで火の中に飛び込んだみたいに熱く、痛い。
それでも乙葉がふらふらと立ち上がって前へ進もうとした時に、三人の少年に追いつかれた。
「ポケモンゲットだぜっ!」
「あうっ!」
一人の少年が繰り出した飛び蹴りと同時に乙葉の小さな体が吹き飛ばされて地面を転がっていく。
そして乙葉が身体を捻じ曲げて苦しんでいると、もう一人の少年が無造作に乙葉のジャージの襟を掴んで坂道を上に戻り始めた。
乙葉は少しでも抵抗しようと暴れるが、他の二人が怒声とともに容赦なく脇腹や足を蹴りあげてくるので従うしかなかった。
抵抗する術もなく乙葉の小さな身体はアスファルトの上を引きずられていく。
その様はまさに狼に捕らえられた野うさぎそのものだった。
――先輩、ごめんない……
汗と涙で霞む視界で、乙葉は霧の中に遠ざかっていく国道をぼんやりと見ていた。
食堂には二十人近い少年たちが居て、その輪の中央の床に乙葉は転がされた。
「まぁたおチビちゃんかぁ。よくよく縁があるつーかどん臭いつーか。で、お前一人なの? 他の奴らはどこ行った?」
目の前に現れた少年に乙葉は見覚えがあった。スクールバスを襲い、ずっと自分と姫の二人を執拗に追い掛け回していた不良グループの双子の片方だ。しかし今は右頬から首筋、右肘と酷い火傷を覆っていて、赤く爛れた皮膚が痛々しかった。
「し、知りません。ここには元々私一人しか……!」
乙葉が唇を噛んでそっぽを向くと、すかさず平手打ちが飛んできて口の中に激痛が走った。どうやら舌を噛んでしまったらしい。みるみるうちに鉄の味が口の中いっぱいに広がって、唇の端から赤い筋が垂れて床に落ちた。
「ま、おチビちゃんが一人でここに隠れてたってことは、他の連中はどっかへ出かけてて、おめえがいくらダンマリ決め込んでても、ここに居りゃあそのうち自動的に全員と対面できるってわけだ。そうだろ?」
その火傷を負った少年――アキラは、乙葉の髪を掴んで食堂の隅へと引きずっていく。
「痛いっ、いや!」
乙葉が連れて行かれたのは車イスの前だった。鼻を突き刺す腐敗臭と獣のような呻き声に、そろりそろりと顔を上げると、そこには車イスに座り両腕を鎖に繋がれた青白い顔の少年が居た。真っ赤に充血した両目からは血の涙が流れていて、口には太い皮ベルトが巻かれていたが、今にも噛み千切られそうなほどに歪んでいる。
そのゾンビは明らかに乙葉を凝視していて、車椅子の上で狂ったように暴れ出した。両腕に巻きついている鎖がガチャガチャと耳障りな音を上げている。
「覚えているか、俺の弟を……」
アキラはシュウの横に並び立つと、愛犬のペットでも撫でるようにゾンビの頭を撫でた。
「ほら、おめえを見て興奮してやがる。覚えてるんだよ、ちゃんとおめえらのことを覚えてやがるんだ。シュウは死にながらも生きている。おめえらクソ女に復讐したくて疼いてるんだ……」
「い、いや……」
乙葉は座ったままの姿勢で後ずさった。身体に力が入らない。それが恐怖の為なのか、転んだ時の打ち身のせいなのかすらわからない。
そして背中に何かが当たったかと思うと、ふと身体が何者かによって抱き上げられた。乙葉を抱き上げたのはプロレスラーのような巨体の持ち主――氷川大悟だった。
「……アキラ、お前には今まで黙ってたがうちは代々続く由緒正しきロリコンの家系なんだ」
大悟のどや顔の宣言に、周囲の少年たちからやんややんやの歓声と拍手が沸きあがった。大悟は乙葉を抱きかかえたまま、みんなの歓声に会釈をして応えるとアキラと向き合った。
「ここへ来るのに、わざわざ下水を通りゾンビの居なさそうな裏道を選んで一日掛かりで来たんだぜ。それでももう後輩が五人もやられちまってる。シュウに食わしちまう前に当然俺らが楽しむ権利はあるよな?」
「へへ、勿論そのつもりだよ兄弟。クソ女をシュウに食わすのは全員でたっぷりといじめてからだ」
「よーし聞いたなお前ら! 桜道の女子とヤレるチャンスはこれが最後だぞ。残りの三人をぜってー逃がすなよ。もうそろそろ戻ってくるだろうから気ぃ抜くなっ。あ、ただ俺だけはそのあいだに一足早くこのロリータちゃんの初物頂いてくっから! みんなごめんっ!」
大悟は少年たちの口笛と歓声を背に、乙葉をお姫様抱っこしたまま食堂を出て階段を上がっていく。乙葉は懸命にもがいたが、丸太のような両腕にがっしりと掴まれていて逃げることができなかった。
「さぁて、どの部屋にしようかなぁ愛しのロリータちゃーん」
大悟は鼻歌を歌いながら、灯りがなく暗闇に包まれている廊下をお気に入りの部屋を探して彷徨った。
その時、階下から声が聞こえてきた。乙葉の名を呼ぶ聞き覚えのある声。
「おーい乙葉ちゃんただいまぁーっ、いま帰ったよぉー!」
それはいつもと変わらない姫の元気な声だった。
「せん――!」
先輩、逃げて!
乙葉の叫びは、大悟の大きなグローブのような手に口を塞がれて掻き消えてしまった。
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