第8話 私たちの生きるセカイ
途中で追いついた銀椿共々、まどかたち四人は無事に第一さくら寮へと辿り着いた。
ゾンビと追っ手を気にしながら視界の悪い霧の中をリヤカーを引いて進むのは、かなりの体力と精神力の消耗を必要とし、まどかは玄関のドアをくぐると、スニーカーを脱ぐのも忘れてそのまま廊下にゴロリと倒れこんだ。他の三人も三和土の上に崩れるようにしゃがみこんで放心している。
皆、額に玉のような汗を滲ませてぜぇぜぇと肩で息をしていて言葉も出ない。
まどかは天井の染みを数えながら、つい今しがた味わったばかりの理不尽な暴力のパワーを反芻していた。
あの暴力の濁流に呑まれてしまった時に、自分たちのようなか弱いただの女の子たちだけでは抗う術もない。確かに今回はみんな無事だったが、今度同じような場面に遭遇したときに、次もうまく行くとは到底思えなかった。
今回は非常に薄くて小さな幸運を、たまたま手にできただけだ。
死体が甦り、生きた人に襲い掛かるゾンビは当然怖いが、生きている人間の暴力も同じように怖い。いや、ゾンビが撒き散らす恐怖にタガが外れて、理性を失って暴走した人間の繰り出す暴力は、知恵があり知識があり五体満足の身体がある分だけ、ゾンビよりも厄介で恐ろしく思えた。
ゾンビは死んだ人間だが、生きている人間の中には肉体は生きていても人として何か大切なものが死んでしまった人間がいる。
もう世界の全ては「死」によって支配されてしまったのかもしれない。
いつか自分の心も死んでしまうのだろうか。
しかし心が死んでも、非力な十六歳の女の子ではたかがしれている。せいぜい同じように心が死んだ同じ年頃の少年たちに媚を売って、暴力と死の恐怖から一時的に逃れるだけが精々だろう。
でも、そんな醜い女にはなりたくない。それじゃあ、娘を捨てて男に媚を売ることで、自分の美と自分だけの幸せを手にしたあの女と一緒ではないか……
でも、こんな世界で自分はどうやって生きていけばいい。
自分たちはどうやって生き残ればいい。
見上げている天井が、ぐにゃりと曲がった。
暴力から解放された安堵と、未来への絶望と、女として生まれた悔しさと、少女としての無力感がごちゃまぜとなって目からあふれ出しそうになると、まどかはそれを認めぬかのように慌てて体を起こした。
まどかが突然飛び起きたので、中学生組の三人が少し驚いたように一斉に視線を向けた。
「ご、ごめん、驚かしちゃったね。なんでもないの。ちょっと考え事してて……」
と、まどかは口は噤んでしまう。
しかし胸の中にあるもやもやした思いは一向に消えない。消えないどころか後輩たちのまだ幼く、疲れ切っていて少しまだ脅えと興奮が見える顔を見ていると爆発寸前にまで膨張していた。
「ううん、なんでもなくなんてない。みんなはまだ中等部で高等部は私一人だけなんだ。私が一番お姉さんで一番しっかりしなくちゃいけないのに…… でもごめんなさい。私はほんとに寮長なんてガラじゃなくて、頼れるお姉さんてタイプでもないの。あんな理不尽な暴力に晒されても抗う術を知らない。でもただ踏み躙られるか弱い女として死んでいくなんて絶対にいや。みんなだってあんな怖い思いは二度としたくないよね。私だってそう。だから私に何ができるのか全然わからないけれど、私はさくら寮の寮長として頑張ってみる。今までは臨時だったけれど本気で寮長職を頑張ってみる。全然頼りないと思うけれど、私はみんなに約束する。私は弱くて頼りなくて全然ダメな人間だけれど、逃げない。なにがあっても逃げない女になってみせます」
と、まどかは自分を鼓舞するかのように両頬をピチャンと叩くと、半ば唖然とした顔でまどかの話を聞いていた咲山姫と栗本乙葉に向かって手を差し出した。
それを見ながら銀椿がメガネをかけていないのにも関わらず中指でメガネを直す仕草をしつつ、「今日が王国の建国記念日であり、私たちの独立記念日……」とボソッと呟いて一人で悦に浸っている。
「ようこそ我が第一さくら寮へ。私が寮長の花城まどかです。これからよろしくね!」
5月9日 土曜日 記入者 花城まどか
今日から第二寮に居た咲山姫ちゃんと栗本乙葉ちゃんの二名が、この第一さくら寮で一緒に暮らすこととなった。
今日はホームセンターで酷い目にあって散々な一日だったけれど、みんなが無事でいられて何よりだ。それに二人が来てくれたことで、明日から少しは賑やかになりそう。
あとホームセンターから戻ってきてからもやることはいっぱいあった。
まずはスクールバスを門の前へ移動する作業。
これは車やトラックなどで門を突破されないためで、椿ちゃん曰くマッドマックス2で見ましたからとのこと。運転の方も椿ちゃんにしてもらったが、普通に運転していてビックリ。
当然車の運転は今回初めてだが、元々多少は自動車全般に関しての知識はあったらしい。
でも知識があるからってそんなに簡単にできるものなのかなぁ。
ほんとに不思議な後輩だ。
そして釣り糸と携帯防犯ベルを利用した警備システムの設置。
これも銀椿ちゃんの案で、塀の上に釣り糸を張り巡らせて、糸に引っかかると壁に設置してある携帯防犯ベルのスイッチが引っ張られてベルが鳴るという仕組み。罠は等間隔ごとに独立していて、そこへホームセンターから大量に持ってきた防犯ブザーを一つずつ設置していくことで、侵入者がどちらの方角から侵入したのかを瞬時に判断できるようになっている。これも霧で視界が悪いのを補うための対策。
それと平行して、管理人室のドアを壊して中から防災倉庫のカギを探す作業も行った。
こちらの作業は新人二人がメインでやってもらった。乙葉ちゃんは足を挫いているので、無理はしなくていいよ~、と声をかけておいたが、めちゃめちゃ可愛い笑顔で「先輩たちが働いてるのに休んでられませーん」て言ってた。いじらしい……(泣)
なんだか仕草や笑顔が愛くるしい小動物を見てるみたいでつい抱きしめたくなる。
そして朗報!
防災倉庫のなかにあったのは、簡易型の発電機やテント、シャベル、ビニールシートなどで、特に嬉しかったのが非常食と救急医療セット!(ジャジャーン)
ちょうど今、打撲や捻挫をしている人間が二名居るので湿布はたくさんあった方が助かるし、何よりも非常食が手に入ったのが大きい。
正確に数えてはいないけれど、四人分だと非常食だけで朝昼晩三食ずつ食べても、ゆうに二ヶ月近くはもちそうなくらいはあった。
これでここでの生活もなんとかやっていけそうな見通しが立ってきた。
明日からは窓のバリケード作りがあるので忙しくなりそうだ。
机の上に置いた乾電池式のランタンの灯りを頼りに、まどかは日記を書き終えると軽く息を吐いた。
電気はホームセンターから戻ってきた時にはもう点かなくなっていて、水道のほうはまだ出ているが、こちらも時間の問題なのであろう。
そういう意味では銀椿の言っていたことは当たっていたし、今日ホームセンターでこのランタンを始めとするいろいろな備品や部品を持ってこれたのも正解だったのだ。
ほんとに変わっていて、おかしな後輩だ。
まどかはクスッと笑うと、忍び足でドアの前まで近付いていく。
日記を書いているあいだからずっと気になっていた廊下の足音。部屋の前を行ったり来たりしていて、時々ドアの前でピタリと止まるので、ドアがノックされるのかなと思っていても静かなままで、やがてまた廊下を行ったり来たりする足音が聞こえてくるという始末。
それがかれこれもう十分は続いているだろうか。
まどかはまた足音がドアの前で止まるタイミングを見計らって、思いっきりドアを開けてやった。
「うっさいんじゃボケ!」
と、ドスを利かした声で怒鳴りつけてやると、目の前には、涙目で口をぽかーんと開けている銀椿が立ち尽くしていて、まどかは腹を抱えて大笑いしながら彼女の腕を引っ張って部屋へと招き入れた。
銀椿をルームメイト用のベッドへ座らせると、まどかは向き合うようにして自分のベッドへ腰掛けた。
まどかの顔には自然と満面の笑みがこぼれていた。あれほど自分を避けていた人間嫌いの後輩が自ら訪ねてきてくれたことも嬉しかったし、まだ中二で十四歳のくせに、まるで歴戦の戦士みたいな身のこなしや考え方を無表情で淡々とこなす変わり者の後輩の、十四歳で人間らしい表情を初めて見て取れたことも大きかった。
「あははは。冗談冗談だよお。――で、どうしたの? 何か用? 蹴られたところが痛む? それとも眠れないの?」
そうまどかは聞いてみるが、彼女は昼間見せた戦闘マシーンかの如くの勢いのかけらもなく、ただ下を向いてじっとしているだけだ。
「じゃあ寝ながら話す? ついでに今夜はここに泊まっていけばいいじゃない。私も一人じゃ心細かったし、どうせそのベッドも余ってるんだしさ」
銀椿は肯定も否定せず相変わらず借りてきた挙動不審者のままだったが、まどかがランタンの灯りを消してシーツにくるまるとようやくベッドの上に横になった。
まどかはしばらくの間、彼女が何かを話し出すのを待っていたが、なかなか話そうとしないので適当に話を振ってみることにした。
「ねえ、今回はなぜ実家に帰らなかったの?」
「両親が嫌いなので……」
「はは、私と一緒だ」
「先輩もですか……?」
「うちは父親が早くに死んじゃってねえ、それでしばらく母子家庭だったの。だけど小六の時に再婚することになって、それ以来なんとなくね。再婚相手の人ともそりが合わなかったし。で、気が付いたら私は全寮制のこの学園へ厄介払い、てわけ」
「すみません、変なこと聞いてしまって……」
「えー、そんな謝らなくていいよー。全然気にしてないし。ねえ、それよりこれから椿ちゃんて呼んでいい?」
「え? あ、はい……」
「ありがと。私のことは世界で一番美しいまどか先輩って呼んでくれればいいから。はい、じゃあ椿ちゃんのことをいろいろ教えてくれる?」
「い、いろいろですか……」
「そう。例えばほら、お兄さんが居るって言ってたじゃない? お兄さんていくつ? どんな人なの?」
闇の向こうで空気が固まるのがわかった。地雷を踏んだと思い、まどかが何か話題を探していると、温度を感じさせない声が静かに聞こえてきた。
「……私が一年前に起こした暴力事件の話は知ってますよね? あれ、実は昼間見せたサバイバルノートを笑われたからなんです。机の上に出しっ放しにしたままお手洗いに行ってるあいだに見られてしまって……。でも、バカにされたり笑われたりするのなんて慣れていましたから全然平気でした。一番許せなかったのは、兄のことまで侮辱したから……」
「お兄ちゃんのことが大好きなのね。いいな、私ひとりっ子だから男の兄妹がいるってどんな感じなんだろ」
「私は両親が年を取ってから生まれたので、兄とは十五も離れていたんです。だから私にとっては兄であると同時に父親でもある感じで、なんか不思議な関係でした。兄妹ケンカも一度もしたことありませんから。いつもニコニコしていて私の言う事やわがままも聞いてくれて……。でも、兄は死んでしまったんです……もうこの世にはいません……」
「え……?」
「自殺でした……。兄は優しかったけれど、弱い人だったんだと思います。大学を卒業してからも父親が経営している会社へは入らず、毎日ブラブラして本や映画を見てばかりいて……、当然両親と兄はいつも口論していましたけれど、それでも私は優しい兄が好きだったんです。夜中に二人で毛布を頭から被って、懐中電灯の灯りに照らされながらたくさんの話を聞かせてくれました。宇宙の謎から深海生物の話に人体の仕組み、見た映画や本の内容まで、とにかくいろいろなことを兄は楽しそうに教えてくれて、そして私はそんな不思議なお話を聞くのが大好きで。あのノートもいつだったかの冬休みの大晦日の日に、除夜の鐘の音色を聞きながら毛布を被って二人で作り上げたんです。その数々の妄想は兄にとっては辛い現実から逃れるためだけの、ただの現実逃避に過ぎなかったのかもしれませんが、私には大好きな兄の注意を惹ける絆でした。兄は本当にこの世界に絶望していたんだと思います。よく生まれた意味がわからない、生まれる時代を間違えたと悔やんでいました。そしてその世界の終わりを妄想するときの楽しそうな顔を見ていると私も嬉しくなってきて、この妄想が続けば続くほど広がれば広がるほど、兄に元気を与えられると信じていました。ナイフの取り扱いを練習したり、いろいろな武器を揃えたのもその一貫です。両親は私が兄の影響を受けることを嫌っていたので、引き離すためにこの学園へ入学させたんです。十三歳の私は無力でした。親の決定をひっくり返す術がありませんでした。そして入学式の日に兄は逝ってしまった……私を残して、たった一人で。せっかくあれだけ待ち焦がれていた世界の終わりがやって来たのに…… 私は兄とこの新世界を旅することが出来なくて本当に無念でやり切れません。――あ、すみません。ついこんな変な話を…… でも自分でも兄も私も普通じゃないってわかっていますから……」
「ううん、そんなことないよ。むしろ椿ちゃんがそこまで自分を語ってくれたことに感動してるくらい。それに思うんだけど、たぶんこの世の中には普通なんてどこにもないんだよ。みんなが一人一人違ってて家族ごとにいろんな愛情や問題があるんだと思う。他人と違ってることが当然で、それを他人が自分の尺度で計って間違ってるって言うのはどこか違うと思うんだ」
「……それは、もし私が人を殺したとしてもそうなんでしょうか?」
「え……?」
「今日ホームセンターで皆を先に逃がしたあとで、私はホームセンターに火を放ち、あのシュウと呼ばれていたDQNお兄さんにナイフを投げつけました。両足に刺さったのでそこへゾンビが来たり、もしくは火の手が回ったりしてもたぶん自力で逃げることは困難だったと思います。あのお兄さん、泣きながらお母さんと叫んでいました……私、人を刺したのは今日が初めてです。ゾンビだっていつも刺又で追い払うだけで、まだ殺したこともありません。あのお兄さんが死んだとしたら、間接的に私が殺したことになります。そう考えるとなんだか急に怖くなってきて……、あれだけ兄と夢見ていた世界なのに、この新しい世界でも私の生き方は間違っているんじゃないのかって考えると、もうどうしていいのかわからなくなってきて……」
「そっか。それがここへ来た理由だったんだ。椿ちゃん、私いま本当に嬉しい。一人で抱えずにこうして話してくれたことに。椿ちゃんのしたことは間違ってないよ。ううん、ごめん。正直に言って私にもなにが正しくてどれが間違っているのかなんて断言できない。でも椿ちゃんのおかげで、私やあの二人は助かった。助けられたの。誰も椿ちゃんを責めたり蔑むなんてしないよ。もし今日のことで椿ちゃんが責められるような日が来れば私も戦うから。それだけは絶対に約束するから信じて!」
「……先輩ってやっぱり優しい人ですね。なんだかお喋りしたら気分が少し楽になりました。あの……そっちに移ってもいいですか?」
「え……?」
しかし椿は返事も待たずにまどかのベットへ入り込んだ。そして少し照れくさそうに顔を半分毛布で隠したまま、
「先輩のことは……私が絶対に守ります。守ってみせますから……」
とだけ言うと、電池が切れたみたいに瞼を閉じて寝息を立て始めた。
まどかはその不器用な後輩の寝顔を少し照れ臭そうに見つめながら、おやすみと呟いた。
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