116話 来たれ
エギルの足元に見たことのない模様が浮かび、辺りには生臭いような、生き物としての根幹を揺るがす形容し難い悪臭が漂い始める。
思い出すのは、この学校で再会をした時のことだ。図書室で再会を果たしたエギルは、書籍を大量に抱えていた。召喚術――魔術の中でも最古にして最難関と謳われる分野。〈結晶の魔術〉に続いて、まさか召喚術まで習得していたとは。
異常である。ぞっとした。
〈結晶の魔術〉ですら、復古に挑戦して敗れた者が何人もいた。それを若き身空にして易々と叶えた挙句、森を丸々と変質させてみせた。その上で、まさか召喚術に挑もうなど。
この青年は、どこまで逸脱する気なのだろうか。末恐ろしく感じるとともに、ひどくわくわくとした。
森の結晶が解けて淡い光がエギルの周りに集まる。人間界産の淡泊でありながらどこかしかしその魔力は、魔法陣に触れた瞬間に醜悪なものへと変わる。
「八つの生贄に魔法陣。魔力という基盤を整え……それでも悪魔はやって来なかった。あなたがいけないんですよ、リオさん。あなたが心臓を持っていなかったから」
「そんなことを言われても……」
ないものはないのだ。流石の僕も困ってしまう。
一見すると何の繋がりもなさそうな両者。しかし召喚術が魔術の一部として数えられるように、魔力の影響は大きい。
〈結晶の魔術〉を――魔力の基盤を整えてまで召喚したいものとは。
「来たれ、来たれ――」
エギルの声に合わせて宙が裂ける。
噴き出るのは深く濃い霧。目の前がくらくらとする。魔力酔いとよく似た感覚だ。身体の内から掻き混ぜて掻き混ぜて、皮膚の内を這いずり回るような。
不思議と不快には感じなかった。それどころかひどく懐かしい感覚すらある。
「この穴、まさか魔界に……?」
隔たれているはずの地域、魔界。魔術か、それとも世界の理か、深い霧によって引き裂かれているはずの世界が、今、たった一人の青年によって開かれようとしている。
本当にそんなことができるのか。たかが人間に――魔術に秀でた種族ではない、人間族の子供に。胸が震えないわけがなかった。
噴き出た霧はあたりを包み込み、深い闇を落とす。
その中にぎらりと光るものを見た。
赤く、黄金に輝く光。太い爪が〈門〉を掴んで、ぎりぎりと、力任せに引き開ける。ずらりと並んだスリコギのような歯が醜悪に笑んだ。
「〈怨嗟の谷〉に続いているのか……」
〈怨嗟の谷〉とは、魔界を横切る深い谷のことだ。覗いても火や〈明石〉を落としても深さを計り知ることはできない。その谷底に住まうのが、今まさに〈門〉を開こうとしている魔物――強力で強大な異形であった。
遅れてやって来たオルティラとニーナ、それから未だ空中に留まっている双子の神族も事の異常さに気づいたようだ。一様に空を見上げて口を開けている。
「……何これ」
「〈三界の門〉だ。何かの手違いで開いてしまったらしい」
疑わしそうにこちらを見下ろす双子。
しかしどうやらこれ以上言及をするつもりはないようで、すぐに視線を逸らした。
「……あの女は負けたか。大口を叩いていたくせに大したことない」
「ミエス、可哀想だから」
「貴重な休日を返上して付き合ってやったのに。最悪」
「一番ノリノリだったくせに」
「うるさい、ユハナ」
口々に言い合う神族。
どうやら僕とともに教壇に上がった少年をユハナ、ずっと険しい顔をしている方をミエスというらしい。
同じ顔だからどちらがどちらか判別をつけづらいが、どうせ今回だけの関わりだ。覚えなくてもいい。そう結論づけて、改めて魔物へと向き直る。
「神族、手を貸せ。〈門〉を閉める」
召喚術における術師の役目は、召喚物を招く基盤を整えること、それから呼びかけること。この二点と言われている。
逆に言えば、その二点さえ終えてしまえば術師は不要になるのだ。
招来の儀式は終わってしまった。こればかりはエギルの計画が
あの時、ひょっこりと芽生えた好奇心が邪魔をしなければ。自業自得というか、何というか。反省はしている。
「勘違いをするな、エリオット・バーンステン」
返ってきたのはひどく冷たい声。先程までの戯れをすっかり鎮めて、双子は口々に言う。
「我々の目的は人間界にあらず。この貧相な地がどうなろうと知ったことではない」
「我らが手中にある人間界より魔界への〈門〉が開いたこと、むしろ好機と捉えるべきだろう」
「そうだというのに、なぜわざわざ〈門〉を閉じなければならない」
「〈門〉を閉じたところで、我々に何の利がある」
かつて一つであった世界は、神代の終末、〈兵器〉によって引き裂かれた。人間界、魔界、神界のそれぞれが独立し、干渉を避けてきたがために、これまで世界規模の――特に魔族と神族による戦争は起きてこなかった。
しかし万が一にも繋がってしまったら。
神族による半ば統治下にあるエルツ共和国と魔界が繋がってしまったら。
きっと争いは避けられない。そしてここ人間界も、多少なりとも被害をこうむることだろう。それは非常に――非常に、よくない。
「……人間界はご飯が美味しい。動植物が豊かで多彩で、写生にはぴったりだ」
初めて人間界に来た時、何よりも驚いたのは色彩の豊かさだった。人工的なものではない、自然本来の鮮やかさに瑞々しさ。
「手間をかけた技巧、芸術、文化。魔術に頼らず、身一つで何もかもをこなしてみせる器用さ。あるいは、かつてこの地で産出した〈竜の瞳〉だって、この〈門〉が開かれたことで、余すところなく食い散らかされてしまうだろう」
臭いものに蓋をする――当時の魔族は、そういう考え方だったのだろうか。
地上を
「かつて魔族は、深い谷底へと魔物を落とした。一匹残らず。魔族にも環境にも、たかが十年、百年では癒えない傷を残したからだ。今、この〈門〉が繋がっているのは、魔物を落とした谷底だ」
魔物と神族が戦ったら。魔物と人間族が争ったら。果たしてどちらが覇権を握るのか。興味はあるが、悠長にしていられないのも確かで。
「フン、厄介なものを残してくれたな。愚かしい、怠惰の極みだな」
「ミエス、可哀想だから」
「それだけ言っておけばいいと思ってるだろ。そんなことないからな」
言い争ってから、双子は改めて声をそろえる。
「〈結界〉だけは張っておいてやる。それ以上の手出しはしない」
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