115話 ない

 服を皮膚を、冷たい刃が割く。


 柄を握り、石突きを押さえたその様は、まるで杭を地面に突き立てるかのようだ。


 エギルは笑みすらも浮かべず、ただ真剣に、真摯に、胸を、拓く。


 一息に開かれる方が、どれだけよかったことか。丁寧に、ともすれば焦らすような解体は、前戯やら愛撫やらのたぐいにすら感じられる。甘さなど微塵もないし、やっていることといえば解体作業ではあったが。


 ふと、生真面目が崩れる。片眉を動かして、


「あれ、リオさん。何かありますよ? 何ですか、これ」


 がちり、と刃が当たる。見下ろすまでもない、それは。


「〈竜の瞳〉だよ」


「あの高いやつだ。そんなのを身体に入れてるんですか? 趣味悪くないですか?」


「仕方ないでしょ……必要なんだ」


「ふーん」


 魔力を集めて保持する性質を持つ宝石、〈竜の瞳〉。確かエギルは〈竜の瞳〉を気にしていたはずだった。古代の魔術を蘇らせる前過程で、代替品として目をつけるくらいには。


 〈結晶の魔術〉をものにした以上、ひょっとしたら宝石の方は用済みなのかもしれない。


「……エギル、僕はついさっきまで神族と戦っていた。きみがいつ、どんな状況で僕を見つけたのかは知らないけど、あの時、僕の近くには仲間がいたんだ」


「そうですね」


 エギルの手が胸の中を探る。やがて目当てのものを見つけたのか、表情を明るくして手を挙げた。


「……あれ?」


 さらさらと、肉片が解けていく。淡い光になってすっかり暗くなった空へと昇る。


 濡れてすらいない手を不思議そうに眺めるエギル。


「〈竜の瞳〉は魔力を集める。魔力には流れと個性があり、追跡が可能だ。『匂い』のようにね」


「ねえ、なんでんですか?」


「僕の仲間には鼻のいいやつが二人もいてね。僕が野ざらしでいること、そしてここに〈竜の瞳〉がある意味は理解した方がいいよ」


 刹那、轟音とともに炎が吹き上がる。血よりも赤く、夕日よりも眩い。


 間違えようがない、〈火焔の魔術〉――カーンが得意とする、炎を操る魔術だ。おそらくは僕から見て左手側の方角にいるのだろう、そう認識すると同時に、闇の中から獣が飛び出してきた。


 汗と傷を全身に纏う男は、剣を片手に迫る。赤い瞳が見据えるのは僕の上――エギル・ザックハート。


 迷う時間はなかった。ぐっとエギルの襟首を引き下げて、凶刃から逃がした。


「リオ様――」


「遅かったね。見ないうちに随分と男前になったじゃないか」


 腐葉土を跳ね上げて、勢い余って転がるカーン。半ば気力だけで動いているのか、足にはほとんど力が入っていないように見える。


 別行動の間、ひょっとしたら神族を引き受けていてくれたのかもしれない。


 健気というか生真面目というか。神族がカーンを相手にする理由などないのだから、逃げてもよかったのに。


「リオ様……離れてください……は、リオ様を――」


「エギル、そろそろ終いだ。分かっただろう、僕は悪魔じゃない」


 身体を起こすべく力を入れると、エギルは体勢を崩した。呆気ないほど従順に。切り裂かれた布が、はらりと地に落ちた。


 少し遅れて突っ込んできたのは灰色の塊。


 レドナと名乗った神族の女性だ。こちらも土と血にまみれていて、整った髪も、顔面を飾っていた厳格な化粧も全てが見る影もない。ありとあらゆるものを蔑ろにして追う様には尊敬の念すら覚えてしまう。


「見つけた……見つけたぞ、バーンステン……!」


 型も技術もかなぐり捨てて剣を振りかざす。僕はエギルの手から、ナイフを奪い取って、斬撃を受け止めた。ビリビリと腕が痺れる。しかしこの程度で――少し顔を歪める程度で受け止められるなど、随分と衰えたものだ。よくぞここまで体力を削ってくれたと、相棒を褒めざるを得ない。


「まさか生徒を取り込んでいたとはな……どこまでも卑怯な連中だ」


「邪推とは感心しないな。彼は無関係だよ」


 地面が膨らみ、根が噴出する。僕を飲み込まんとする根を蹴って、伸びた細い枝をナイフで断つ。


 結晶に覆われた森の外れに位置する場所とはいえ、凝縮された魔力の恩恵は十二分に受けられる。条件は同じ。ならば僕だって。


 切り開かれた服の奥で宝石が輝く。


 目を見開くレドナ。


 根と葉が降り注ぐ中、魔力を凝縮して八つの塊を女へ向けて撃ち下ろす。その間、一秒にも満たない。


「魔力を固めただけの純粋な弾丸――キミたちは昔もこれが苦手だったね」


 崩れた足場に魔力の弾丸。もう体力も残っていなかったのだろう、地面へと落ち伏せて、身体に三つの弾丸を受けて。肩と腹と足を赤く染めて。女は憎々しげに顔を歪めた。


「それだ」


 レドナは呻く。


「貴様のせいで……貴様の、その蛮行のせいで、息子は死んだ! 戦士として死ぬことも叶わず、ただ辱めを受けるなど。全て、貴様のせいだ!」


「……何のことだか分からないな」


 嘘だ。


 呆気なく終わった襲撃を冷ややかに見下ろして、僕はようやく相棒の方へと目を向ける。


 早く治療をしてやらないと。治療して、寝かせて、そろそろこの学校も出ないと。オルティラやニーナのことも探さないと。ふと、ようやく思い出す。


 エギルは。


 ごくりと、嫌な音が聞こえる。エギルから聞こえたのは、何かを飲み込む音だ。濃く穢れた魔力が広がる。


 よく知っている。これは砂漠の女王が、海の神が、体内に仕込んでいたものだ。穢れた魔力。どうしてエギルが――。


「困った時にはこれを、って……豪語するだけはある」


 呟くエギルの顔は、苦しげに歪んでいた。


「もう悪魔の力はいらない、一人でやります」

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