117話 苦しみの果て

 神族の結界は強固だ。


 魔術も竜も、ヒトすら通さず、術士が死してなお確固たる意志を持ち続ける。


 内からの衝撃、外からの波動。その全てをたった一枚、爪ほどの厚さもない壁でピタリと受け止める。


 神族を攻略するにあたって、文字通りの壁として立ち塞がったのは、この結界であった。


 生身に到達するよりも前に魔力を削られ、突破したかと思えば再びそびえ立つ。強固で執念深く、神族を体現するような壁が僕たちを、そして人間界を守っている。そう思うとひどく不快であると同時に心強かった。


 ――オオオォォ……。


 魔物の咆哮が響く。羽を休めていた鳥が散り、木々も動物も騒ぎ立てる。


 びりびりと結界が打ち震える。〈三界の門〉よりもはるか上空、天から降り注ぐように半円の結界が展開される。淡く複雑な文様を描く結界が、悠然と降り立つ。


「カーン、エギルとニーナを連れて退避しろ」


「……すぐに戻ります、御武運を」


 もの言いたげに、顔を歪ませたカーン。それでも食い下がらなかったのは、限界に近いからなのだろう。


 離せと荒い声がする。しかしそれはすぐに止んだ。鈍い音。エギルは――術士は、沈黙する。


「りお、リオ! ニーナ、ちゃんと『ごめんね』したいから! だから、怪我しないで!」


 きゃんきゃんと騒ぎ立てる声も次第に遠のく。物分かりのいい人ばかりでよかった。気持ちを切り替えて、〈三界の門〉へと向き直る。


 僕の予想は当たっていた。開かれてしまった〈門〉を前に、術士の意識は関係ない。未だに〈門〉は口を開けたままであるし、世界の淵を掴む魔物の手はずるりと、あるいはブチブチと、耳障りな音を立てて木の先端を掻こうとしている。


 時間はない。落ちていた自分の剣を拾い上げて、さやを捨てて、輝く陣へと進む。近付くにつれて瘴気は濃く、身体を押し潰さんと圧し掛かる。


 魔物と最後に戦ったのはいつのことであったろうか。


 不意に真っ赤な苛烈が視界の隅に揺れた。オルティラだった。背丈ほどもある長いなまくらや刃を肩に担ぎ、朱色の唇を歪める。


「手伝うよ」


「気持ちはありがたいけど、あれは魔物だ。キミが手を出せるかどうか――」


「へえ、あれが。まさか実在していたとはね。絵本の通り、なかなか恐ろしい見た目をしているじゃないか」


 裂け目から平たい顔が押し出される。


 生まれたての子供のような、図鑑で見かけた『サル』なる生き物のような。吐き出す息は腐敗を纏い、スリコギの歯が並ぶ口からは唾液が滴り落ちる。


 生き物でありながら生き物ではない。自然の循環を破壊して、己の快楽のためだけに生きて食らう生物。


 動植物からすれば魔族も人間族も神族も、『文明』という名の免罪符をかざす全ての者たちも魔物と同じように見えるのだろうか。


 息を整えて、森を覆う結晶から魔力を徴収して、凝縮して、弾く。魔術なんて大層なものではない、そこらの石ころを投げるような、しかし魔力を身に宿す者にとっては肉を削ぐも同然の弾丸。魔物も例外ではない――はずだった。


 突き出した片手で、いとも容易く弾丸を受け止める。黒色の体毛が僅かに禿げただけで、ろくに傷を与えていない。それどころかぐいと腕を伸ばして、勢いよく振り下ろした。


 どおん。地震と紛うほどの衝撃。飛び散る土と木片が一瞬の視界を奪う。


 赤色が先行して腕を駆け上がり、肘の裏辺りを切りつける。魔力を帯びていない体剣では傷をつけらず、これもまた皮膚を剥ぐに留まった。


 魔物は腕を振って羽虫を払う。すんでのところで飛び退いていたオルティラの爪先をわずかにかすめて、木々をなぎ倒す。


 体勢を崩しながらも着地したオルティラは口笛を吹いた。


「意外と素早いんだな」


「無理に攻めなくていい」


「ンなこと言われたって……」


「僕が動きを止める」


 魔物は人間界へ這い出ることに躍起になっている。ならば来たくなくなるように力を見せつける。それだけで、見せしめにはなる。


 僕の意図が伝わったのか、オルティラは体勢を低くする。すぐにでも飛び出せるよう、今か今かと『その時』を待ち構える。飼い主に従うその様に相棒を見た気がした。


「いいかい、魔物は今、〈三界の門〉から片腕と顔を出している。動きを止めたら、顔を狙うんだ。そうだね、目がいい。いくら硬い表皮を持ってしても、粘膜まで補強できまい」


「ハッ、ご丁寧にどうもね」


 ズズ、と左肩を引き出そうとする魔物。助言の最中に収集した魔力に司令を出そうとした――その時、首の後ろが粟立った。身を翻したオルティラが、何かを払った。


 根だ。地中から伸び、僕を背後から突き刺そうとしていた根。成長の過程で出会ったのか、白骨化した頭部が絡まっていた。


「私と契約し、願いを叶えよ、悪魔!」


 叫ぶ神族。他でもない、レドナと名乗る神族の女性が、最後の力を振り絞ったのだ。


 魔物の目が女を捉える。それを是と受け取ったのだろう、女の顔が醜く歪んだ。


「私の願いは息子を――無念の死を遂げた息子を蘇らせること! 精霊ですら叶えられなかったそれを、貴様に託す。できるだろう、悪魔よ!」


「あれは悪魔じゃない、ただの魔物けものだ! 概念と化け物の区別すらつかないほど、キミも落ちぶれてはいないだろ!」


 神族とは気高く、誇り高い種族である。少なくとも彼らは、そう自称していた。敬服するたった一つの存在にのみ従い、主君の名を落とさぬために自らを強く律する。この点は――この点だけは、僕も認めていた。


 なのに。


「もうのだ。神族は、たった一人の王を主君とし信仰する。息子をうしない、精霊に縋ったその刹那、神族から逸脱する。私は、既に異教徒なのだ」


 厳格にして模範的な神族。彼女――レドナと名乗る女性を見たとき、そう感想を抱いたものだ。


 しかし、蓋を開けてみればどうだ。真面目で、真面目すぎて、己を顧みることすら忘れて、野心へ向けて突き進んできた。


 戦争で息子を亡くし、神族としての誇りを捨て、ようやく宿敵を目の前にした『母』。


 さぞや憎かったことだろう。


 息子と同じ目に遭わせて、これまでのうのうと生きてきたことを後悔するほど、自ら死を請うほど、残虐に残酷に殺してやりたかったはずだ。


 足掻き、呻き、苦しんだ果てに見た光景とは、はたして何だったのだろうか。


「ああ、二柱様……二柱様の情けをいただき、私は幸せでした。しかし――問いたい。主君は、主君とは、真の神の化身……そうではなかったのですか、二柱様」


 突然女の胴に黒い棘が突き刺さった。


 肺に一つ、腹に二つ。湯気を立てる焼肉料理ステーキへ戯れにフォークを刺すかのように。


 それは瞬く間に引き戻され、悲鳴すら残すことなく、刃ひしめく魔物の口腔へと消えていく。あまりにも、あまりにも唐突すぎる出来事だった。

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