113話 契機
それは五十年ほど前のこと。
のちに「人神戦争」と呼ばれる大戦は、ある男の一言から始まった。
――我ら人間界の民は、
シュティーア王国の名のもとに出された声明は、瞬く間に市井を駆け巡る。
当時の僕が滞在――いや、統治していた魔界の一国、ビヨルグ大帝国まで届いたのは、ちょうど声明から三日後のことだった。
魔界は冬が深く、日照時間が短い。
厳しい環境ゆえに食料事情は常にかつかつで、しかも魔物――魔界を横断する深長の谷に住む飢えた獣――が人里にまで這い上がる被害が多発していた。
気象災害に獣害。数多の問題を魔界一つで解決するには至らず、外部へと助けを求めるしかできなかった。
その際に唯一応えててくれたのが、シュティーア王国。竜との共生を目指した国だった。
「まさかあの国が……と言いたいところですが、竜騎士兵団を登用した時点で予測できた流れではありますね。神族を相手取ったのは驚きでしたが」
人間界で戦争が始まる。しかも魔族因縁の種族、神族を相手に。
そもそも人間族と神族は、さほど不仲ではない。むしろ文化の面で濃厚にやり取りをしているはずだった。聞くところによれば、神代の『神』から拡大して神族を信仰する集団も存在するとか。
それだけ友好な関係を築いているにも関わらず、なぜわざわざ敵にまわすようなことを。
当初はそう思ったものだが、
「……勝機があるとは言えません」
「やはりそう思うかい、カーン」
詰め
「たとえ竜の協力を仰ごうとも、魔術には敵わないでしょう」
「人間界が戦場になったら?」
「それでも、です。魔力保有量の少ない人間界であろうとも、時間をかけさえすれば魔術は使えます。……あるいは、かつて存在していたという『魔力の鉱石』を精製するやも」
「ふむ、確か魔力の保存を可能にする魔術だったね。それはあり得る話だが、はたしてどうだろうね」
「……随分と興味がおありのようですね、リオ様。まさか首を突っ込む――などとは」
「そのまさかだよ」
掛けていた椅子から身体を起こして、ぽっかりと空いた窓に手を触れる。指先から体温が抜けていく。
「恩義を返す、その意義も強いが、何よりも相手が『神族』であることが大きい。神族はすべからく魔族の敵だ。神代より、天賦より、そう決まっている」
「あなたがそう仰るのであれば」
魔族と神族。神話の時代から続く因縁は、今なお根強い。
千を超える年月を経ていながら、なぜ未だに支持さ続けているか。きっと魔界の空気がそうさせているのだ。それ以上の追究に意義を見出せず、見出す必要がなく、今はそこで止まっている。
そう、意味なんて必要ない。
魔族だから、神族だから。
魔族が魔族である限り、神族は例外なく敵だ。
ふと、僕の視界を影が
カーンよりも高く、僕の二倍近くはあろうかという背丈。頭頂からふわりと落ちる火焔の髪。
「陛下、本当に戦が始まるのですか」
ロヴィーナ・バーンステン。彼女は高いところから僕を見下ろすと、垂れ気味の目を精一杯吊り上げて、
「あの土地にはわたくしの友人がおります。悪戯に掻き乱すようなことは……」
「失礼しちゃうな、掻き乱すなんて。恩義も義務も、全て理に適っていると思っているけど」
「そうですか? わたくしには子供の
「……ああ、それについては同情するよ」
三界は陸続きではない。互いに深い霧によって隔たれ、互いの干渉を避けてきた。ゆえに中間は存在しない。一方が一方へと侵攻するより他ないのだ。
「神族は『粛清』の姿勢を崩さないだろう。人間界へ罰を下す――体裁を保つため、この構図を取りたがるはずだ。そうなれば、神族による人間界への侵攻は避けられない」
「どうにかなりませんか? あの場所には、わたくしの友人がいるのです」
神族はヘビのように執念深く、人間族はカメのように打たれ強い。
引くに引けぬ戦いであれば、長引くことは必至だ。だがそこに魔族が加われば。
「
切った火蓋は戻らない。そうと知りながら、縋る気持ちで切り出した女性を頭ごなしに否定するなど、流石の僕でも気が引ける。
高いところから見下ろす気弱そうな瞳から逃げるように、小さく、呟く。
「……早く戦争を終えれば、あるいは」
頭のどこかでは、きっと分かっていたのかもしれない。理想はすべからく裏切るのだと。
人間界を舞台とした戦は惨状を極めた。
川は赤く染まり、撃ち落とされる神族と竜が山を成す。
僕たち魔族――いや、僕はといえば魔力に喘いでいた。魔力の少ない人間界で魔術を駆使すること。その困難に直面していた。
カーンが言及した『魔力の保存』をものにできればよかったのだが、失われた魔術の復活は、たとえ魔術に長けた魔族でも容易ではない。たった数年の短い期間では、どうしようもできなかった。
そこで取った手段、それが。
――捕虜を殺すというのか!
――やめろ、やめてくれ!
――この、悪魔……!
魔力の徴収。魔力を源とする種族から生命を奪う、悪魔の所業だった。
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