94話 違法でないなら
教員用の浴室を借りて湯浴みを済ませた僕は、丸椅子に座り込んでいた。
下着にシャツを一枚羽織るだけの軽装で、火照った身体を休ませる。開け放たれた窓から吹き寄せる、少し湿った空気すら心地よく感じた。
「お風呂、気持ちよかった……」
「久方振りの湯浴みでしたからね」
カーンはわしゃわしゃと揉みながら、僕の髪に纏わり付く水分を拭い取っていく。彼の指が動くたびに全身の血液が循環していくような心地がした。
「あ~溶ける~。カーンもゆっくりできた?」
「ええ。心身共に」
「それならよかった。ご飯の用意にニーナの世話に……いつも忙しくしてたもんね」
僕の旅路もすっかり大所帯になったものだ。足を揺らせば、頭上から苦笑が降ってくる。
「どこかの誰かさんが御節介を焼くから、こうなるのですよ」
「オルティラについては僕、悪くないでしょ! ……そんなに嫌? みんなで旅をするの」
「もちろん」
だが是と応じるその声には、どことなく慈愛すら読み取れる。心の底から厭うていないことが、唯一の救いだ。
難しい男だ。首を捻っていると、素早く話題を切り返された。
「馬人族の件はどうなさるおつもりですか」
人間界に存在していたとされる種族、馬人族。彼等を求めて、僕たちはここ、ツィンクス魔術特育校を訪ねた。馬人族が――馬人族の生き残りがいるかもしれない。そう淡い期待を抱いて。
「この学校、何となく魔力が集まっているような気がするんだ」
「魔力、ですか」
「うん。人間界が他三界と比べると魔力密度が低いことは知っているよね。だけどこの学校は、人間界の他の地域と比べると十倍近く違う。濃いんだ」
魔力の濃度は、土地柄によって多少の偏りが生まれることがある。しかしこの地は異常であった。まるでこの地域だけが、魔界にそっくり差し替えられたような。
自然界ではまず起こり得ない魔力の吹き溜まりが、この地にできていた。
「この影響が馬人族の、ひいては馬人族の技術によるものかは分からない。でも、期待は持てると思う」
自然に成し得るものでないなら、人為的に作られたものだ。そう結論づくのは当然の流れだ。
人間族の技術と探究心は凄まじい。しかし魔術の点においては、どうしても他種族に遅れを取ってしまう。そのような彼等が、果たして魔力を扱うことができるだろうか。何者かの入れ知恵があって、初めて現実となったのではないか。
「ぜひとも調査したいところだけど……ひとまずは、待つことにしよう。蔵書を眺めながらね」
まずは信頼を得ること。そうでなければ、馬人族に会うことすら叶わないだろう。
校長ヘル・エンゲルスは思慮深い人物であると見た。僕の頭巾を取るよう強要したり、膝で組んでいた指に力が籠っていたり――大仰なほどに警戒する素振りを見せていた。そのような彼女が、希少種であり学園関係者でもある馬人族を差し出すはずがない。
また成果を得るかも分からない心理戦か。
こめかみを揉んでいると、ふと扉を叩く音が聞こえた。
「リオ殿、よろしいですか」
静かで、それでいて力強い声。この学校の長、ヘルだ。応じると、彼女は扉越しに声を掛けてくる。
「本の用意ができましたので、お呼びに上がりました。……湯加減はいかがでしたか」
「最高でした、本当に。しばらく雨しか浴びていなかったものですから。……ニーナやオルティラ――僕の仲間は、まだ湯浴みの最中ですか?」
「ええ、楽しそうにしておられますよ」
それならば、しばらくは静かな時を過ごせそうだ。相棒に手伝ってもらいながら身支度を整える。意匠に凝った、一応外行き用の綺麗な衣装を。例の女戦士にもしっかりした服を買ってやらないとなぁ、と呟くと、相棒がものすごい顔で振り向いた。
ヘル・エンゲルスに先導されて辿り着いたのは、「図書室」と掲げられた部屋だった。
両開きの戸を開くなり目に飛び込むのは、ぐっと奥へと伸びる本棚の群れ。深い漆塗りの棚には厚さ様々の本たちが所狭しと詰め込まれており、道すがらには燭台が煌々と焚かれている。
その一角に、うず高く積まれた資料の山。二つの机を贅沢に占拠している。それを見上げた僕の口から、思わず感嘆が洩れた。
「何かあれば校長室か教員にお申しつけください。……では」
持ち出しや書き込み、飲食が厳禁であること。写字は司書に一言通してから。
簡単な約束ごとを口にして、ヘル校長は去って行く。ピンと伸びた背を見送って、僕たちは短く言葉を交わした。
「手筈通りで」
「承知しました」
ニーナとオルティラが戻り次第、馬人族の捜索に向かう――これが、カーンとの間で立てた計画だった。カーンとオルティラは未だに不仲ではあるものの、ある一線においては信頼を置いているようだ。
彼らの間で何かあったのか、それともカーンが譲歩し始めているのかは定かではないけれど、何にせよよい傾向であることは確かだ。
「私が外へ出ている間、リオ様はどうなさるおつもりですか」
「僕? 僕は資料を漁るよ、ちゃんとね。運がよければ〈兵器〉についての記述を見つけられるかもしれないし」
机に積まれた資料を見る限り、およそ百年は遡ることができるだろう。近年流通しつつある植物性の紙と比べると、動物の皮膚を原料とする羊皮紙は物持ちがよい。
懐から取り出した手袋を装着して、
日焼け一つない紙面を撫でて、相棒に覚書用の筆記用具を要求した。
――
僕が手に取ったのは、短く銘打たれた本だった。濃茶色の下地に金銀の箔をまぶした、質素ながらも気品を感じさせる表紙。例にもれず木板を土台として用いているのか硬い表紙を開けて、挟んであった真新しい封筒を退ける。
一方のカーンは、〈兵器〉に関する情報を集めに行った。
〈兵器〉という名称が出現するのは人間界の神話だ。人間界に属するこの学校ならば、下調べの際には見つけられなかった書籍が手に入るかもしれない。そう期待していたが、どうやらこの学校は、神話学には微塵も興味がないようで、成果は得られなかった。
「〈兵器〉――もとい神話に関する書物は、この一冊しか見つけられませんでした。代わりに懐かしいものを見つけましたよ」
「見覚えのある題名だと思ったら、これ、僕が翻訳した本だ」
著者名も訳者名も書かれていない小説。魔界出身の小説たちだ。まさかこれが残っているとは思わなかった。カーンの手から古めかしい小説本を受け取って、さらりと表紙を見て回る。
「『襲栄』に『愛せし
「おそらくシュティーア王国のみにおける
「
周囲の生徒たちが微かに反応したが、僕は見て見ぬ振りをした。
「……まあ、違法でないなら構わないんだけどさ。ちょっと恥ずかしいよね」
僕は本を閉じてそれを置く。僕にとっては黒歴史も同然の代物であるが、相棒は全くの真逆であるらしい。口元に笑みすら浮かべながら文字をなぞり始めた。
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