93話 ヘル・エンゲルス

 雨が止んだのは、『追いかけっこ』でひとしきり遊んだ日の二日後であった。


 目的地である魔術の学び舎は丘の上にあった。連日の雨の影響で道はぬかるみ、足を取られる。馬車を曳く若ウマも息を荒くしている。


 ここまで過酷な道中であるとは夢にも思わなかった。素直に運送業者を頼らなかったことが悔やまれる。


「リオー、見て見て、どろんこ!」


 地面を踏み荒らして、汚れた手を僕の目の前で広げる少女。僕は慌てて距離を取った。


「汚さないでよ。洗濯、大変なんだから!」


「汚してないもーん」


 くるりと、膝丈ほどのワンピースを揺らす。ひらひらと漂う裾には、明らかに泥が跳ねていた。水たまりに飛び込んでいないことが唯一の救いであるが、いつ痺れを切らせるか。


 この様子には流石のオルティラも苦笑いで「全く、子供は元気でいいねぇ」と呟いていた。


 早朝に出発して歩き続けること数時間。太陽が頭上近くまで登ったころ、ようやく建物が見えてきた。


「見えた、ツィンクス魔術特育校……!」


 校舎はさほど絢爛ではなく、むしろ村に鎮座する教会のような、どこか質素な様相である。しかしその大きさといえば周囲の木々がようやく越せるほどであり、最低でも三階層は確保していることだろう。


 ぴったりと閉められた門の前に門番はいない。代わりに錆びたベルが設置されていたから、それを揺らして音を立てる。しかし待てど暮らせど応えはない。やがて痺れを切らせたオルティラが、ぐいと門を押し開けた。


 地面に続く石畳み。その両端には向き出しの大地が広がる。校庭も随分と広い土地が確保されているようで、牧畜でも始められそうな広さだ。ほう、と息を吐く僕の視界にあるものが飛び込んできた。


 腕立て伏せを繰り返す人々。それも一人ではない。十、二十――百人はいるだろう。


 人間族から獣人まで種族は様々であるが、いずれも懸命に鍛錬に励んでいる。その意図が僕は瞬時に理解できなかった。ここは魔術を学ぶ場所だ。憲兵の育成施設ではない。それなのに、なぜ身体を鍛えているのかと。


 人々の間を縫い、屈強な男がこちらに近付いてきた。肌は健康そうに焼け、剥き出しになった上半身にはいくつもの山が見える。カーンやオルティラよりも多くの筋肉を、彼は蓄えていた。


「やあ、いらっしゃい。新入生かな?」


 明るく爽やかに片手を挙げる彼は、僕たち一人一人を舐めるように見て回る。


 このままだと本当に入学手続きを進められてしまいそうだ。僕は少し前へ出て、


「先日手紙を送ったリオと申しますが」


「ああ、魔術の研究をしているという。話は伺っています。ようこそ、ツィンクス魔術特育校へ! 歓迎しますよ」


 白い歯を見せて、男はがっしりと僕の手を握る。


 僕の手など優に握り潰せてしまいそうなほど広く肉厚な手。体内を流れる魔力は微量で、とても魔術士とは思えないが――。


「して、そちらの方々は?」


「仲間です。彼等には研究に補佐をお願いしているんです」


「なるほど、そうでしたか。ささ、どうぞこちらへ。校長がお待ちですよ」


 随分と大事に捉えられてしまったようだ。男は清掃員と思しき人々を呼び寄せて、ウマや帆馬車を舎へ連れるよう言い付けると、すっと息を吸った。


「腹筋背筋、浅屈伸運動追加! いいか、誠心誠意、心の底から肉体に向き合え。逃げてもためにならんぞ!」


 腹の底を揺らす太い声。それに応じる若々しく威勢のよい声。それぞれの音を山が返してくる。それを間近で受けた僕は、軽い眩暈を覚えた。



   ■   ■



 ツィンクス魔術特育校。魔術の研究および魔術士の卵を育てる学校。その『校長』と名乗る人物は、予想と反して少し年のいった女性だった。


 長い足を組み、皮張りの長椅子に背を預ける美しい女性。その目は刃物よりも鋭く、表情は氷のように冷たい。校長室まで案内してくれた男や、外で身体を動かす生徒たちとはまるで正反対である。


「改めて、私はヘル。ヘル・エンゲルス。この学校のおさです。歓迎しますよ、リオ殿。今日は何でも、研究のためにうちの蔵書を参照したいとか」


「手紙でも申しました通り、私は魔力の起源を研究の軸として据えています。古い文献が御校に蔵書されていると耳にしましたので、伺った次第です」


 僕はヘル校長の向かいの長椅子に腰を掛けて、ゆったりと構える。


 同席するのは相棒のカーンだ。泥汚れがひどいニーナを部屋に入れる訳にはいかず、その子守役としてオルティラも席を外している。


 本来の目的は馬人族の捜索だ。しかしそれを明らかにしてしまえば、彼等は警戒をして出て来ないかもしれない。希少種であれば尚更だ。だから僕は、遠回りではあるが潜入という手法を選んだ。


 そんなことを思っているとは夢にも思わないであろう校長は、白手袋に包まれた長い指をあごに当てた。


「確かにうちには、古い文献が幾つかあります。司書係に用意するよう伝えておきましょう。――ところでリオ殿」


 冷たい目が僕を捉える。


「見たところ、貴殿はまだ若いようだ。初等、せいぜい中等くらいの年齢ではございませんか。それなのに研究とは……一体どこで魔術を学ばれたのです」


 そうきたか。目前の女性は、存外警戒心が強いらしい。


 隠し立てをしても、いずれ露見ことだ。僕は頭を隠していた頭巾フードを取り払った。ヘルの視線が、さらに鋭くなる。


「見ての通り、私は魔族です。見た目と年齢はそぐわないと、そう申せばご理解いただけますでしょうか」


「ふむ、それは失礼しました。しかし、ここは会談の場。外套を被ったままなど非常識であると思うのですが」


「気分を害したのであればお詫びいたします。……あまり素顔は晒したくないもので。行く先行く先で絡まれても面倒ですから」


 人神戦争で共闘した種族同士とはいえ、魔族の汚名は広く知れ渡っている。それどころか戦争の原因を魔族に置く者すらいる。


 五十年経った今でも――いや、、確執は強い。


「事情は理解しました。しかしですね、リオ殿。私はこの学び舎の長。素顔を明かせない者を野放しにしておく訳にはいきません。どうぞ学内では、ご尊顔をさらしていただきますよう」


 この学び舎は生徒の衣食住も担っているそうだ。親御さんから子供預かり指南するのだから、不審者等には敏感になるのだろう。その気持ちは十分理解できる。


 先細りの尖った耳。くるりと巻くツノ。


 魔族らしい見た目は、きっと注目を集めることだろう。しかし学園の意思たる彼女に抗えるはずもなく、僕はただ頷くことしかできなかった。


「古い文献を用意し終えるまで、いくらかの時間が掛かります。その間、何かご用はありますか。もしなければ、我が校の授業を見学していかれますか」


「その前に汚れを落とさせていただきたいのですが。何せ泥の中を歩んできたもので」


 ほんの僅かに丸くなったヘルの目が、僕を見つめる。ようやく彼女は相貌を崩した。


「これは気が利かず。今用意をさせましょう」

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