95話 エギル・ザックハート

「湯上りホヤホヤの女子だぞ、喜べ男子ども!」


 品の欠片もない声が聞こえたのは、ちょうどカーンが僕訳の小説を二冊目まで読み終えた頃だった。


 首から布を下げた赤髪と濃茶色の毛玉が静寂を切り裂き、跳ねるようにこちらへと近付いてくる。付近で自主学習に励んでいた生徒たちは姿を消しているが、ここが図書館――静寂を愛する空間であることに変わりない。僕は唇に人差し指を当てた。


「ここ、図書館だよ。静かに」


「なんで。人いないけど」


 ムッとした様子で反論するオルティラ。


「そういう決まりだからだよ。それに、この空間を求めてやって来る人もいる。オルティラも酒場で誰彼構わず怒鳴り散らしたり泣き喚いたりしている人がいたら嫌だろう?」


「……日常茶飯事だけど」


「邪魔に感じる人もいるんだよ。だからもう少し声を抑えて」


 そう僕が言うと、視界の端でピンと耳が立った。無邪気にも口角を上げたニーナは、僕が止める間もなく「分かった!」と大きな声を発した。そして彼女は走る。冷たいタイルの上を音も立てずに。


 静かにとは言ったが、走り回ってもよいとは言っていない。思わず声を張り上げたくなるのを抑えて、椅子から飛び降りた。


「リオ様、私が行きます」


「大丈夫、すぐに戻って来るから。カーンは本を見てて」


 腰を浮かせるカーンを制して椅子から飛び降りる。茶色の背中はとっくに見えなくなっており、足音すら聞こえない。短毛の絨毯が少女の足音を掻き消しているらしい。全く、逃げ足の早いことだ。


 流れゆく景色を覆う本棚は、まるで崖のようだった。


 こんなにも巨大な本棚を携える学校なのだ、さぞや多くの蔵書を抱えていることだろうとばかり思っていたが、奥へ進むにつれて空白が目立つようになった。


 本の収容が間に合っていないのか、それともこれ以上蔵書を増やすつもりがないのか。真意は測りかねるが、空っぽの本棚は暇を持て余しているように見えた。


 僕は歩調を緩めて毛玉を探す。破天荒で常識を知らない子供が一体何をしでかすのか、心配で堪らない。彼女が原因でツィンクス魔術特育校を追い出されでもしたら目も当てられない。


 焦りに揺れる最中、僕の視界に毛玉が写った。しかしそれはすぐに本棚の角へと隠れてしまう。ようやく捉えた彼女の足取りをみすみす逃す訳にはいかない。床を蹴った。


「わあっ!?」


 二つの声が重なる。角を曲がった瞬間、何かにぶつかったのだ。


 尻餅をついた僕の前には、同じく倒れ伏した青年がいる。その周りには大量の本と紙――僕は慌てて起き上がった。


「ごめんなさい、大丈夫ですか!?」


「いたた……だ、大丈夫です。そっちこそ怪我は――」


 面を上げる茶髪の青年。顔に掛かる平たい円を弄る彼は、僕を見るなりあっと声を上げた。


 ツィンクス魔術特育校への道中に出会った、眼鏡の青年。薄暗闇でも分かる白く濁った瞳は、うっそうと笑みを映す。


「数日振り、ですね。先日はありがとうございました。あ……、自分のこと、覚えてますか?」


「覚えてるよ。あんな土砂降りの中を走って……風邪や怪我は大丈夫だった?」


「ピンピンです」


 はにかむ姿には、先日の歪さは感じられない。年相応の清々しいものだった。


「それにしても、ここの生徒さんだったんだね。びっくりした。なんで走ってたの?」


「授業の一環です。体力づくりとかって……」


 そういえば、彼の前にも同じ服装の集団がいたか。なるほど、どうやらこの学校では、ただ知識を詰め込むだけでなく、身体づくりも資本に置いているようだ。


 近年においても魔術士は貧弱と言われがちだが、ツィンクス魔術特育校はそれを打開する一派になり得るかもしれない。


 衝突の衝撃で地面に散らばった本や紙を集めると、青年も我に返ったように束ね始める。


「これから授業?」


「ええと……今は休憩中というか。ちょっとだけ休みがあって、その後に授業です」


「偉いね、休憩中なのに調べものをしてるんだ」


 エギルの手元には魔術に関する様々な書籍が積まれている。中でも彼は召喚術に興味があるようで、題目に似た文字が並んでいた。


 召喚術――理論では解明しきれない事象を多く扱う魔術。魔術の中でも最古にして最難関とうたわれる分野だ。年若いのに熱心なことだ。心の底から感心する。


「あなたは、どうしてここに――」


「あーっ、リオみーっけ!」


 青年の声を遮るのは、静寂をものともしない甲高い声だった。


「なんで追いかけて来ないの! ニーナ、お部屋の端っこまで行っちゃったんだけど!」


「勝手に走ったのはニーナだろ、なんで僕が怒られなきゃならないの」


 不服そうに下唇を突き出すニーナに、僕もまた同じ仕草を返す。すると気に障ったのか、彼女はくるりと踵を返して本棚の角へと消えてしまった。慌てて呼び止めようとするが、ニーナは一向に戻って来ない。


 またしても追いかけっこか。深い溜息を吐いて、僕は立ち上がった。


「そろそろ行かないと。引き留めてごめんね」


「いえ」


 彼は首を振る。しばし沈黙する彼だったが、不意にもぞりと口を動かした。


「名前、訊いてもいいですか」


「僕はリオ。また会う機会があればよろしくね。――キミは?」


「エギルです。エギル・ザックハート」

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