72話 愛の力
英雄ユリウス・ルットマン。
五十年前、人間族と神族との間に巻き起こった戦において、多大なる功績を残した若者だ。竜に
数多と存在する人間族の一人でありながら、その名を轟かせた所以はそこにある。
どうやらその名前は、海を渡った先にあるここグラナトにも伝わっているようで、給仕は目を丸くしていた。
「あの英雄が使っていたのですか?」
「ああ。そう伝わっておる。さて、少年。この雷を操る魔術――簡単に習得できるものなのか?」
炭を落としたような瞳が、こちらを見上げる。ネズミ族のマスター。小さな身体ながら、その眼光は偽りを許さぬ迫力を湛えている。これこそが傭兵に支持される所以であろう。
緊張にか、あるいは高揚にか、乾いた唇を湿らせて僕は応じる。
「簡単、とは言い難いと思うよ。雷は摂理だ。水を生み出し、炎を操るのとはわけが違う。それこそ神の所業と言えるだろう」
“黒の母”と呼ばれた怪物は、かつて嵐を呼んだ。嵐とは天候だ。天候とは自然の摂理だ。僕たちが操れない――いや、操ってはいけないもの。それと同等のことを、かの英雄は飄々とやってのけたのである。
だからこそ、あのような悲劇が起こったのかもしれない。
「彼以外に雷を操る魔術を扱える人間がいるとは、とても思えない」
「なるほどな。……少年が言うなら、そうなのじゃろう」
「随分信用してくれるんだね?」
「俺も存外、長生きなものでな」
ひげをピクリと動かして、マスターは僕を見下ろす。
「よいか、少年。十分注意するのじゃぞ。この事件、チューネズ亭を狙ったものではないかもしれん」
自然現象という線が消えた今、残されたのは何者かによる襲撃の可能性だ。いや、ほぼ確実であろう。
傭兵は、その性質上、命のやり取りとは切っても切り離せない存在だ。無論恨みは買うし、首を狙われていてもおかしくはない。そして僕たち――チューネズ亭に立ち寄った旅人にも、その矛先は向けられうる。
「マスターこそ気を付けて。傭兵の首領という立場を狙う者は少なくないから」
「フン、そう簡単にやられてやらんさ」
なあ、とマスターは己が乗る肩の持ち主に視線をくれる。
「お姉さん、強いの?」
目を丸めたニーナがそう問いかける。すると給仕は「愛の力ってやつですよ」と微笑んで、両の拳を固めた。
「ニーナも愛の力、使えるかなぁ」
「きっとね。一生添い遂げたいって思える人に出会ったら、自然と使えるようになりますよ」
その言葉に、ニーナの瞳がきらりと輝いた。純真に無垢に、ただ給仕の言葉を丸飲みにする幼子は、心底嬉しそうに、己も強くなるのだと張り切っている。
愛を知り、愛を享受することを、これほどまでに願うだなんて。昔の僕なら恐ろしくて仕方なかったが、最近の子供は大人びている。いや、『おませ』と言うべきであろうか。
こほん、と女性陣の会話が遮られる。咳払いの主マスターは、
「まあ原因が何であるか分からん以上、警戒するに越したことはないだろう。――何度も言うようじゃが、十分留意せよ」
「もちろん」
そう言うなり、マスターは給仕に指示を出してその場を後にする。今夜の寝床でも探しに行くのだろう。
生憎と僕たちが借りている部屋は二人部屋で、三人で寝るので精いっぱいだから寝床を提供することはできないけれど、この街に根差す彼らのことだ。きっと宛てはあるのだろう。
荷物一つない女性とその肩に乗る小さな背中は、以前にも増して凛々しかった。
マスターや給仕が去ると、チューネズ亭の前は次第に人が少なくなっていく。
取り残されたのは現場の調査を行っていると思しき消防隊とやつれた身なりの数人。火事場泥棒でも狙っているのだろうか。それを視界に収めながら、改めて焼け焦げたチューネズ亭を見上げる。
「……よかった」
思わず呟く。
死者はゼロ、生死に関わるような大怪我をした人もいない。実害はチューネズ亭の建物や備蓄、一部傭兵の荷物だけだという。
マスターや給仕が無事ということもさることながら、顔見知りが一人たりとも欠けることがなかったことが、何よりの幸いであった。
ただ一つ憂慮すべきは、未だ姿を見ていない赤髪の戦士のことか。彼女のことだ、そう簡単に死ぬとは思えないが、最後に見たその姿はデロデロに泥酔していたことだけが気掛かりである。何か酷い目に遭っていなければよいが。
突然ニーナが声を上げる。突如として引き戻された意識に思わずはっとすると、彼女は耳をピンと立てて尾を強張らせていた。
「おじちゃんに謝るの、忘れてた」
「ふふ、忘れてたね」
「でも、怒ってなかったね」
「そうだね」
ネズミ族のマスターに襲い掛かったことを反省していたニーナ。謝罪の機会は逃したが、マスターがさほど気にしていないことに安堵したようだ。どことなく緊張していた相貌を崩して、へらりと耳を倒す。
子供の戯れだからと、そう見逃してくれたのかもしれない。かのマスターが情に流されやすい男でなくてよかった。ただただそれに尽きる。安堵したその時だった。
カーンの腕が僕を制す。何事かと彼の視線を追う。
壁に寄りかかる、鈍い銀色。ゆらりとはためく赤い髪が、先の火災を連想させる。
背丈ほどもある大剣を担ぐ彼女は、確固たる足取りで僕たちの前に進み出ると、カツリと踵を鳴らした。
「やあ、こんばんは」
それは女戦士オルティラであった。
「……何の用だ」
カーンが低く呻く。ともすれば牙すら剥き出しそうなその様子に恐れをなしたのか、ニーナがさっと僕の後ろに隠れた。対する女はけらりと吐き出すように笑う。
「なあに、そんな警戒しなさんな。ちょっとしたイイ話を持ってきただけさ」
そう言うなり、オルティラは赤い唇を歪めた。
「どうだい、一枚噛んでみないか、少年」
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