33話 もういらない
「カリュブディスの恩恵。それについて、リオはどう聞いた?」
「ええっと、恩恵……あれ、特に聞いてなかった気がする。でも、豊饒の女神とか何とかって言っていたような」
ガリュブディスの恩恵など、僕にとって初耳であった。王やマリネラによって説明をされることもなく、僕自身もそれについて疑問を抱くことがなかった。
そんな僕の状況に呆れたのか、ハリが大きく息を吐いた。
「そんなんでよく引き受けたなぁ。なーんにも説明受けてない癖に」
「ぐ……だ、だって、カリュブディスは魔族が封印したんでしょ。だから――」
「責任を感じて、か? 全く、お人好しなこって」
カリュブディスが封印された戦争の時代、僕は生まれていなかった。いや、実際は既に誕生していたかもしれない。だが、記憶にはない。僕個人に直接の責任はないが、どうしても歴史の闇に葬られた同族の悪事が許せなかった。
一人の魔族として。そして、その代表として。
拳が白くなる。向けられた軽蔑の視線が、僕の胸に荒波を立てていた。
「こら、ハリ! ――すまない、リオ。許してやってくれ。彼に悪意はないんだ。ただちょっと口が多いだけで」
「大丈夫だよ。間違ってない、事実だから。……そう、僕は同族の後始末のつもりでこの地にやって来た。だから裏にどんな事情があろうとも、その願いを、聞くつもりだった」
僕は顔を上げる。ヨアニス、ハリ。二つの若き反旗、その視線が、じっと僕を貫いていた。
「だけどそれは、思考の停止に他ならなかった。自己満足に過ぎなかった。ちゃんと見ないと……今を、これからを見ないと。キミ達と話して、そう感じた。だから聞かせて欲しい。僕が考えて、結論を出すために。王が語らなかった真実を」
彼等は今を生きている。そして未来を見つめている。
そんな彼等が目指す世界を理解しなければ、僕は二百年前の魔族と同じになってしまう。自分達の為だけに、目先の利益を追求し、邪魔立ても異論の声も全てをねじ伏せる。暴君で傲慢な彼等に。
「……リオは、偉いな。そんな小っちゃいのに」
「小さいは余計だよ」
苦笑と共に応じると、ヨアニスは切なげに眉を歪めた。
これまで理解者が、殆どいなかったのだろうか。カリュブディスの解放を望む王の下、己が主張を抑制され、共有できるのは限られた覆面の同志のみ。彼の表情は、初めて外部の賛同を得た感動のようにも見て取れた。
「ご、ごめん。何か、嬉しくて……。地上の民って、こんなに温かいんだな」
それは早計では。出掛かった言葉を飲み込んで、僕は面持ち穏やかに、その言葉を受け止める。未だ警戒を怠らないハリの視線を感じながら。
ヨアニスが落ち着いた頃を見計らって、ハリが場を締める。感傷に浸るのは後日――目的を果たしてからだ。思慮深い彼は、そうヨアニスの背を叩いた。
彼等は志を同じくする者であり、同時に友人でもあった。僕やカーンの関係とも違う、いつ敵対するかも知れない、不安定で賭けにも似た信頼の下に、彼等の仲は成立している。その友情は、僕は経験がないもので、とても羨ましく思えた。
「よし、話を戻そう、恩恵の話」
改めて、ヨアニスは居住まいを正す。それに釣られて、僕の背筋も伸びた。
「双母はそれぞれ、象徴とするものがあるんだ。リオはさっき、“白の母”を豊饒の女神と言ったよな。その通りで、白の母は豊饒を、黒の母は安寧を司るとされている」
「なんだか、神様みたいだね」
「そう、神――カリュブディスは俺達スキュラにとって神であり、同時に使者でもあるんだ。だけど、それはあくまでスキュラにとって。地上の民からすれば、その限りではない」
「それがさっき話してくれた、船から物を奪って……ってやつ?」
ヨアニスは頷く。
僕が人質であった時に話してくれた、カリュブディスの解放を拒む理由。それは一対の母の片割れ、“白の母”による恩恵であった。彼女は魚人族に財宝や調度、木板等の恵みを与える一方で、航海する船々を危険に晒していた。
それを知らなかった僕は酷く驚き、同時に困惑したものだった。今でもその残滓は僕の胸を漂っている。これを事前に知っていたら、一つ返事で依頼を承諾することもなかっただろう。
目先にちらつく同族の罪に気を取られたとは言え、あまりにも浅はかであった。軽い反省をしつつ、僕はヨアニスの言葉に耳を傾けた。
「“白の母”は嵐を起こし、船を沈没させる役目を負っていた。そしてその積み荷をスキュラが回収し、生活の糧とする。もしくは魔術に長けた者が地上へ運び、売り払う。そうやって、祖先は豊かに暮らしていたそうだ」
「ということは……今は交易をしていないの?」
「いいや。故障だか何だかで勝手に沈んでくる荷物や海藻、貝殻を売っている。交流自体はしているんだ。でも……昔と比べると、国益は半分以下だそうだ。それがきっと、王や大人は我慢ならないんだろう」
以前味わっていた贅沢に、再び身を浸したい。その願望は分からなくもない。至極全うな欲である。
一つ一つ、彼の話を咀嚼しつつ聞いていると、どこか退屈そうな面持ちのハリが口を挟んできた。
「正直、国の利益が減ったと言われても、オレ達若い世代は、そもそも栄えていた時期を知らない訳だし、まあ、年老いた奴らの方針には、心から賛同なんてできねぇよな」
「知らない過去を目指そうって言われても難しいもんね。……キミ達は今のままで十分って思ってるの?」
「……いや、駄目だ」
ハリは頭を揺らす。
「オレは、誇り高い生活をしたい。地上の民の遺品を漁るんじゃなくて、自分で作った物を売って生活できるような、そんな国を目指したいんだ」
疑う余地なく、彼の言葉は本心だった。その横で、ヨアニスもまた同意の声をあげる。
彼等は変わろうとしているのだ。カリュブディスの恩恵がなくとも生きていけるよう、利益を上げられるよう。人間族や獣人との交易を諦めず、胸を張って共生の未来を歩むために、彼等は彼等なりにケジメをつけようとしていた。
そんな者達を妨げる権利を、僕は持ち合わせていない。それがよい方向に梶を取っているならば尚更だ。
しかし、どうしようか。僕は考える。
僕はどのような形で手を貸すのが正解なのだろう。残り少ない時間をどのように活用すべきなのだろう。わざわざ会談の席を設けたというのに、僕は答えを見つけられずにいた。
「俺達がカリュブディスの解放を拒む理由、分かってもらえた?」
穏やかに、だがどこか不安げにヨアニスが尋ねてくる。僕は一瞬躊躇った後、頷いた。
「未来へ、進むため」
「うん。だからもう、“白の母”は――いらないんだ。誰かを傷つけて得た恩恵なんて、クソ食らえだ。ずっと眠りっぱなしの彼女には悪いが、でも、きっと許してくれる」
青年は見上げる。天を仰ぎ、絶叫する石の像を。魚人族の信仰の対象を。
彼女が声をあげることはないが、その表情はどこか和らいだように見えた。
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