32話 名前が先か、存在が先か

「ニーナ嬢、不自由はしておりませんかな?」


 王レヴァンの先には、濃茶色の毛玉があった。布に包まり、床に埋まった貝を擦っている幼子。ガラスにも稀な橙色の瞳が持ち上がり、壮年の男を映し込んだ。


「リオとカーンがいないの、つまんない」


「それは……仕方ありませんな。お二人は仕事の真っ最中なのです。たとえニーナ嬢があの二人の傍にあっても、同じ事と思いますよ」


「でもでも、つまんなーい」


 パタパタと「束ねた髪」を揺らすニーナは、器用にも部屋の隅まで転がっていく。彼女の先には、客人の荷物があった。この場にいない、二人の男が運び込んだ地上の匂い。すっと肩を膨らませた少女は、それを懐かしむように目を細めた。


 すっかり萎れてしまった獣人の傍に膝を付いたレヴァン王は、玩具を持ち上げる。つい先程まで少女の相手をしていた侍女が用いていた、海藻の細工だった。


「玉遊びは、もう飽きましたかな?」


「飽きた。貝をひっくり返すのもお絵描きも、ぜーんぶ飽きた」


「絵本はいかがです。息子が幼い頃に読んだ物があった筈――」


「ニーナ、文字読めないもん」


「では爺が読み聞かせましょう。退屈は時に毒ともなりますゆえ」


 部下を呼び寄せるべく、レヴァン王は膝を立てる。それとほぼ同時に戸が叩かれた。次いでやって来るのは、緊急を告げる焦った声。壮年の男は、可愛がっていた幼子に断りを入れると、客間を出た。


「どうした」


 それは城に常駐させている兵士だった。薄い甲冑に身を包む若い兵士は、肩を激しく上下させて、レヴァン王の前に傅いていた。


「先程、反対派によって神殿が占拠されたとの報告が……!」


「何――リオ殿は、カーン殿は。マリネラは無事なのか!?」


「現在調査中です。……いかが致しますか」


「どうするも何も、絶対に魔族を死なせるな。救出せよ! どんな手を使ってでも、我らが母を復活させるのだ!」


「ハッ!」


 鋭い声を出す兵士は、王の意志を伝えるべく駆けていく。それと入れ替わるように別の男がやって来た。未だ慣れない二足歩行に苦労した様子の、大臣職の男だ。彼はレヴァンの前にやって来るなり、不自然に整えられた眉を寄せた。


「王、お聞きになられましたか」


「ああ」


 大臣も、先程の若い兵士と同じ目的で、レヴァン王の元を訪れたようだ。


 彼は最後の最後まで地上の民を海底に招くことを渋っていた。こめかみを揉むその表情は、酷く疲れきっていた。


「地上の民をここに招けば、何かしらの難事が起きると……そう申したではありませんか」


 過去に数度、スキュラは地上に住まう民を海底都市へ向かい入れた。


 一度目は母に封印が施されるよりもずっと前、世の中が平和であった頃のことである。


 恋に現を抜かしたスキュラが、人間族の女を持ち帰った。当然女は溺れ死に、男は亡骸と共に帰還を果たしたのだが、男は日に日に醜く、柔らかくなる女と寝食を共にして精神を病んだ。


 これを教訓として、スキュラと地上の民との恋愛は禁忌であるとの認識を深めた。しかし実際はというと、恋愛事情に変化なく、たびたび海底へ連れて帰るだの海を出るだのという騒ぎが起こった。


 二度目は“白の母”が深い眠りについた後だった。人間族の中で最も優れていると評判だった魔術士の男を招いた。


 彼は、後に重要な役割を担うことになる魔術――地上を満たす空気を海中に持ち込む魔術を、スキュラに伝えた人物である。しかし彼の功績はそれだけではなかった。


 海底に都があり、そこには珍妙な種族が住んでいる。そんな冒険譚が、男の口から広まったのであろう。


 スキュラの都オロペディオが置かれた海域には船が押し寄せ、網を投げ入れた。興味本位に顔を出したスキュラは捕らえられ、海底には未曾有の食糧難と数多の失踪被害が寄せられた。


 そして三度目。記録された地上の民による海底訪問は、これが最新である。


 たまたま船に乗っていた魔族二人と巡り合い、藁にも縋る思いで、かつて“白の母”を封印した者と同種族である彼等を頼った。しかしそれは、以前から存在を囁かれていた“白の母”の復活を望まない者達に火をつける結果となった。


 魔族の来訪を公にしていたならば、そのような騒ぎにも納得はできよう。しかしレヴァン王は悩んでいた。


 来訪の件は王宮内、それも信頼のおける人物にしか伝えておらず、また同席も許していなかったのである。情報の管理は、王のせがれすら余所へやる程の徹底振りだった。


 だから、反対派に今日のことを知られる筈がないのだ。そう、内通者がいない限りは。


「そうだ――あれは何処へ行った」


「王子ならば、西の離宮にいらっしゃるはずですが……」


「……それは真か? 机の下から扉の裏まで探したか?」


「聞いて参ります」


 恭しいほどの礼の後、大臣は身を翻す。それを見送るレヴァン王は、一人爪を噛んでいた。


「魔族が死ねば全てが終わる。……スキュラの未来は潰える」


 様子を見に来た侍女に少女の世話を任せ、王は歩みを進める。


 王子が失踪したとの報告を受けるまで、そう遠くなかった。


   □   □


「まずは確認しようか」


 そう僕は切り出す。本来ならば僕が進行するべきではないのだろうが、気付いたら始めていた。染みついた習慣はなかなか抜けるものではないらしい。


「僕達はキミ達のお母さん――“白の母”だっけ? その人を助けてほしいと頼まれて、ここにやって来たんだ。その時に話も聞いた。二百年前の戦争の時、魔族の行軍を妨げたとして封印されたって。……これは合ってる?」


「封印までの経緯は合っている。俺達の知っている通りだ。だけど――」


 ヨアニスは一度口を噤む。それを声に出すべきか、悩んでいるようだった。


「俺の勘違いだったら申し訳ないんだが、一つ訂正すると、まずカリュブディスは俺達の、血の繋がった母親ではない」


「えっ、そうなの?」


 僕は目を丸める。ヨアニスも、その隣に座り込んだハリも、二人揃って頷いた。そしてハリは鼻で笑う。


「“白の母”はそもそも双母――二人の母の片割れ。『母』という呼び名は、単なる称号に過ぎないんだ」


「称号……そっか、そうだったんだ」


 お母さん、お母さんと言っていた自分が馬鹿みたいだ。熱くなる頬を隠すように、僕は面を伏せる。


 よくよく考えてみれば、可笑しな話である。石と化したカリュブディスと魚人族。それは明らかに異種だ。どう認識を歪めようとも、彼等が血の縁で結ばれているとは、到底思えなかった。


 ふと僕の中で疑問が湧き上がる。


 “白の母”と対として語られる、“黒の母”。それが全く話に出て来ていないのだ。王の話にも、ヨアニスやハリの話にも。彼女を綴ったのは、マリネラの唇のみ。


 妙な暗雲が腹から湧き上がる。疑問は、すぐさま僕の口から飛び出した。


「“黒の母”は? 彼女のこと、全く聞かないんだけど……今はどこに?」


 ヨアニスは口を噤む。しばし沈黙した後、彼はゆるりと淡い金色を揺らした。


「分からないんだ。彼女のことは、何も聞かされていない」


 まるで僕達が探し求める古の道具のようだ。何となく親近感を覚えつつ、僕は先を促した。


「“白の母”と“黒の母”は、一対の存在だ。しかし、それはあくまで信仰上の話……双母が存在し、それが信仰の対象になったのか、それとも名前に似合う怪物を見つけて、生き神のような存在に仕立て上げたのか。それすら分かっていない、変な存在なんだ」


「名前が先か、存在が先か、ってやつだね」


 名前に沿った存在を象徴として祀り上げるか、存在に似合った名前を付けるか。似ているようで、両者の性格は全く異なる。


 前者であれば、“黒の母”は“黒の母”足り得る存在がまだ見つかっていないと考えられるし、後者であれば死に絶えた、ないしは行方と晦ませたとも解釈できる。


 ヨアニスはほんの少し目を丸くした後はにかんだ。


「そう、それ。よく分かったな、こんな説明で」


「褒めたって何も出ないよ。……それにしても、ヨアニス、詳しいね。研究しているの?」


「まさか。そんな大層なものじゃない」


 視線が落ちる。宝石のような綺麗な瞳には、微かな痛みが浮かんでいた。


「この話をしてくれたのは母さんなんだ。全部、一言一句、母さんの受け売り。母さんは“白の母”についてとても詳しくて、子守歌代わりに聞かせてくれたんだ」


「子守歌代わりにこの話かぁ……」


 子供に聞かせるには、少しばかり難し過ぎないか。彼の母親の選択に首を捻っていると、ヨアニスはあたふたと言葉を付け足す。


「もちろん、こういう難しい話ばかりじゃなかったよ。双母がスキュラの守護神となった由来とか、貢物をどう処理したらいいか分からなくて三日三晩寝ずに考えた話とか。二人が喧嘩する話もあったな。その中でも特に好きなのが、“白の母”と人間族との恋の話で――」


「おい、いつまで話してんだよ。そろそろ話、戻そうぜ」


 会話の糸を断ち切るように、ハリがひょいと手を振った。本来の目的を思い出したらしい青年は、少し慌てた後、申し訳なさそうに肩を落とした。


「すまない……そうだったな、早くしないとな」


「早く?」


 さらりと洩れたその言葉に、僕は首を傾げる。


「何か予定でもあるの?」


「いや……まあ、予定と言えば予定か。あいつのことだ、すぐに邪魔者を送って来るだろう。その前にお前等を説得しなけりゃァならないって意味の『早く』かな」


 応じたハリは、ヨアニスを見る。その視線を受けた青年は白い指を、まるで祈りでもするかのように絡めた。

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