31話 若き談判者

 状況はまるで変わらなかった。白刃は絶えず男を睨み、男もまた囲いの中で牙を剥き続けている。


 僕の相棒は、その命の危機に晒されていながらも、僕への気遣いを止めなかった。心配なさらず、必ずやお助けします。ピリリと張り詰めた空気に、場違いな程優しい声が響いていた。


 円周は徐々に小さくなっていく。ヒトの形を取る魚人族達は、皆一様に緊張か怒りかに肩を張っているが、どれもカーンを殺そうとはしていないようだった。それとも、殺せないのだろうか。ここが、母の寝床であるから。


 床に転がっていた男が起き上がった。覆面が外れ、歪んだ素顔が露出している。三本と一本弱の赤い線を付けたそれは、明らかに冷静を失っていた。


「よくも……よくも神殿を汚したな、オレの血で――」


「やめないか、馬鹿者。先に血で穢したのは俺だ。そもそも原因はお前の軽口だろう」


「黙れよ、ヨアニス。一度穢したらもう関係ねぇ。テメェの血も流させてやる」


 そう言って男は腰から短剣を引き抜く。一方の背後の男――ヨアニスと呼ばれた彼は全く動じなかった。応じれば組織の分裂が進むと判断したのだろうか。そんな彼らに挟まれた僕は堪ったものではない。


 分岐点と、伸びゆく未来を見つめる男。その冷静さは、この場において最も必要とされるものだった。だが冷静である人がいれば、そうでない人がいることも確かである。青筋を濃くした傷の男は、明らかに後者だった。後ろに流した髪を逆立て、寒色の瞳を燃やしている。


「おら、掛かって来いよ、番犬殿。折角縄を千切ったんだ。御主人様のために戦ってみるか?」


「……リオ様、許可を」


 こちらもこちらで、冷静を失っている男だった。もちろん僕は応じない。傷を付けられた男の言葉は後先を考えない挑発だ。自棄と言ってもよい。そんなものに気安く乗って、自らが負傷する理由も、カリュブディスの寝床を穢す必要もない。


 血を不浄として見る風潮はどこにでも存在する。特に死と直結した血では顕著である。たとえそれが信仰上の概念に過ぎないとしても、その思想は根深い。海の底に住まう種族でも、それは変わらないようだ。


 それよりも、まず治療をさせてくれないだろうか。横たわったままの身体が緩い寒さを訴え始めて、僕はようやく要求を声にする気になった。


「あのさ、傷を治してもらえないかな。カーンに任せてくれると嬉しい。それから……話がしたい」


「……何?」


「カリュブディスについて。それから王、レヴァン王との会談の件も。何か力になれるかもしれない」


 荒事は避けたい。それが僕の願いだ。部外者が立ち入ったがばかりに国が分裂するなど、あってはならないのだ。


 見上げた覆面の奥は窺い知れない。どのような表情でこちらを見降ろしているのか、何を考えているのか、検討もつかなかった。


「妙な事をしないと誓うか?」


「しないし、させない。……誓えるものは何もないけど」


「そうか。まあ、受け入れよう。我らが双母カリュブディスとヨアニスの名の下に」


 そう静かに言って、彼は僕の腕を拘束していた紐を切った。その最中さなかにカーンを呼び寄せる。こちらの男も決断は早かった。自分を囲む刃には目もくれず、それどころか人々を押し退け、一直線に僕の元へと駆けてくる。


「ああ、リオ様……今治療を」


 患部に触れるカーンの手。そこから温もりが広がる。ずきずきとした痛みが和らぎ、全身の強張りが解けた。


 安堵する僕の耳には、駆けつけた覆面達に指示を出すヨアニスの声が届いている。


 こちらはもう大丈夫だ、持ち場へ戻ってくれ。そう命令する声は凛々しかった。それに覆面達は文句を垂れたが、軽口も同然のそれら洩らすばかりで、大した抵抗は見られなかった。ヨアニスは深い信頼を寄せられているらしい。


 やがて神殿に残されたのは僕とカーン、ヨアニス、そして傷を受けた男のみとなった。これで元通りだ。少なくとも、母の寝床が多量の血に浸される事態は避けられた。それは褒められてもよいと思う。


「リオ様、魔力の調整を」


 褐色の手が肌を離れ、服を整えていく。傷も傷跡も残ってはいなかった。ようやく表情を和らげた相棒に安堵しつつ、僕は身体中を流れる魔力を意識した。


 刃を受け、それによって断裂された魔力の回路は、〈治癒の魔術〉を以ってしても、そして自然に身を任せても、元のように治ることはない。身体の持ち主が、自ら意識して整えなければならないのだ。魔力を扱う者にとっても、基礎も基礎のそれを怠るようなことがあれば、特に僕の場合は、死活問題へと成り得る。


 思考はいつも通りだ。手足、指先まで痺れなく動く。心臓も、きちんと動いている。異常はない。僕は赤い双眸を見上げた。


「大丈夫、問題はないみたい」


 そう伝えると、カーンはほっと肩を落とす。この時の相棒は、恐ろしい程に穏やかだ。ずっとこのままであったらよいのに。


 僕が身体を起こそうとすると、背中を何かが支える。依然として僕の背後に膝を付いていたヨアニスだった。


 罪悪感でも抱いているのだろうか。謀反も同然の事を起こしておきながら、目的のために僕達を利用しようとしていながら、まるで決意半ばで連れ出されたかのように甘く揺らぎやすい男のようだ。僕はそれが不思議で仕方なかった。


「えっと、ヨアニス。それから――」


「ハリ」


「ハリ。交渉に応じてくれてありがとう。助かったよ」


 勝手に名前を明かされた傷の男ハリは顔を顰める。歪んだ頬から顎にかけて、鮮やかな血が涙のように伝った。


「はー、全く。オレはそんな気、なかったんだがなぁ」


 人生上手くいかないものだ、と彼は床に転がっていた容器を拾い上げる。僕の怪我に塗られた軟膏が入っていた器である。ぶつぶつと唇を動かして、ハリは薬を自分の頬に塗りたくった。


「自分で持って来た薬を、自分に塗る羽目になるなんてな……ちょっとは手加減しろよ。何だよ、この傷」


「よかったじゃないか、傷薬が近くにあって。――こちらこそありがとう、地上の民。リオと言ったか? 助かったのはこちらの方だ」


 ヨアニスの声は微笑んでいた。そして彼は躊躇いなく覆面を剥ぎ取った。


 緑の瞳と金の混じった暗い髪。おっとりと下がった目尻も相まって、襲撃者にはとても似つかわしくない、優しい顔つきをしていた。


 それにしても、素顔を明かしてもよかったのだろうか。心配になって尋ねると、案の定、優男はさっと顔を青くした。


「しまった……いや、でも、お礼を言う時はちゃんと顔を見ないとだし、顔を隠したままなんて失礼だし……」


「ヨアニスはいい子なんだね」


 それは本心だ。なぜ彼がこのような凶行に至ったのか不思議で仕方ない。はにかみ、後頭部を撫でる仕草もまた年若い少年のようで、邪気の欠片も感じられなかった。


「いや、いい子なんて……そんな……」


「何照れてんだよ、バーカ」


 いい子だったらこんなこと、してないだろ。そうすかさず突っ込むハリ。彼らは思っていた以上に仲がよいようだ。何となく、それが羨ましかった。


「外にいる魚人族は……スキュラは無事?」


「ああ。誰一人として欠けてはいない。同族殺しは、スキュラにとって最も忌み嫌われるべき行為だ」


「そうなんだ。安心したよ」


 スキュラとしての矜持が残っているならば、マリネラや、護衛として付いて来てくれた人々の命は心配せずともよさそうだ。


 危惧すべき事柄がなくなった僕に、緊張を取り戻した二人の若者が向き直る。この二人には仕事が残っているのだ。僕達の役割を食い止めるという大きな仕事が。


 数も威圧も少ないものの、その空気は議会の席を思い起こさせた。

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