30話 手元が狂った

「リオ様!」


 悪魔のような表情のカーンが剣を抜き放つ。それを制す鋭い声。僕の腹を貫くそれとは異なる刃物が、僕の首に突き付けられた。


「動くな、剣をしまえ。御主人様がどうなってもいいのか」


 燃え盛る双眸。ああ、これは後が怖い怒りだ。鼻筋に皺を寄せて渋々剣を収めるカーンを見て、僕の気はどんどん重くなる。


 背後から回された指が、僕の顎を持ち上げる。喉笛に冷たいものが触れた。


「変なマネはするな。いくらスキュラでも、魔力の濃淡くらいは分かる」


「リオ様を降ろせ」


「どっちの立場が上か、分かっているのか」


 そう鼻で笑いつつ、背後の人は僕を床に座らせてくれる。それを確認したカーンは、自分の周りに集めていた魔力を解放した。


 背後から、いくつかの足音が聞こえてくる。くもぐった鈍い音――少なくとも、素足ではなかった。


「外は終わった。調子はどうだ」


「とりあえずは――まあ、こんな所だ。少しばかり手元が狂って刺してしまったが」


「手元が狂って刺すとか、殺人鬼か何か?」


「ち、違う! 急に動いたから間違えて――」


「間違えて刺されるんじゃ、このガキも堪ったモンじゃねぇな」


 新しくやってきた若い声が、僕の視界に現れる。


 皮だろうか、顔を何かの素材で覆っている。体格を見ても、やはり男だ。それは真っすぐカーンの背後に回ると、慣れた手つきで腕を縛った。


 怪我人だから僕は許されると思ったが、全くそんなことはなかった。束ねられた手首は、カーンと同様に背後で結ばれる。ほんの少しその紐が湿っているのは、水の中を泳いできた為だろうか。ぬめついている。眉根に自然と力が籠った。


「くそっ、リオ様――リオ様の治療を!」


 何を勘違いしたのか、カーンが暴れ始める。彼の近くで、覆面の男が武器を持ち上げた。


 拘束する紐は細い。彼ならば簡単に引き千切ってしまうだろう。そうなればカーンが傷付く。僕は慌てて暴れ馬を宥めた。


「カーン、大丈夫だから。落ち着いて」


「ですが!」


「自分の身体のことは自分がよく分かってる。だから、大丈夫」


 カーンはぐっと唇を噛む。鋭い犬歯が唇を裂いた。


「いやぁ、美しい主従関係だなぁ。演劇にしたら奥様方が沢山金を落としてくれそうだぜ」


「やめないか、みっともない」


 カーンの傍にいる覆面を、僕の背後が諫める。立場は僕の後ろにいる青年の方が上か、あるいは同じくらいだろうか。徐々に曇りゆく思考の中で、僕はそんなことを考えた。


「暇なら包帯と薬を持って来てくれ」


「一人で大丈夫か?」


「ああ。どうやらこの御主人様は、他とは違って聡明であらせられるらしい」


 なあ、と念を押すように、僕の喉を指が這う。一度は収まりを見せていたカーンの瞳が、再び燃え上がった。


「……でも、番犬殿は恐ろしいな。襲われたらかなわない。そこの柱にでも括り付けておいてくれ」


「はいよ」


 覆面の男は、牙を剥くカーンを引く。抵抗を見せていたカーンだったが、僕に宛がわれた刃物が揺れると、大人しくそれに従った。


 カーンを柱に縛り付け、剣を奪った男が離れて行く。背後の男は、じっとこちらを睨みつけるカーンを警戒しながら、僕を支えていた。腹を貫くそれは刺したままだ。きっと出血を最小限に抑える為だろう。その気遣いが、今は鬱陶しかった。


「悪かったな、刺してしまって」


 ふとそんな声が聞こえてくる。噛み締めるように、僕の背後の男はそんなことを言っていた。


 謝るくらいなら最初から注意していればよかったのに。喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、僕はゆっくりと音を紡ぐ。


「どうして解放を……カリュブディスの解放を拒むの?」


「……偉大なる母は、俺達に恵みを与えてくださる。だがそれは、地上の民を危険に晒すことと同義だ。見ただろう、宮殿を。街を彩る調度の数々を。あれは全て船から奪ったものだ」


「奪った……?」


 そうこうしている間に、あの覆面が戻って来た。手には布の束と小さな容器をお乗せている。飄々と、どこかおどけた様子の足取りでそれは近づいてきた。


「来たか。――悪いな、治療の魔術を覚えていればすぐだったんだが」


「あの人なら、使えるよ」


 そうカーンは示す。あわよくば、とも思っていたが、襲撃者はそこまで馬鹿ではないようで、覆面を揺らした。


「勘弁してくれ。流石に無理だ。だから、今はこれで我慢してくれ」


 そう言って男は僕の身体からゆっくりと刃を引き抜く。痛い。呻く僕の視界の隅で、相棒が身動ぎをした。


 肩から二枚の外套が降り、防寒具の前身頃が解かれる。僕のすぐ隣に膝を付いた覆面の男は容器の蓋を開け、僕の服を押し上げて患部を露出させた。


 皮膚はぱっくりと裂け、じくじくと赤色に熟れていた。初めてまじまじと見る自分の血肉。何だ、案外生き物のようではないか。感心する僕の傍ら、覆面の男はカラカラと笑った。


「……血、思ったより出てねぇな。よっぽど刺し方がよかったんだな」


 軟膏を取った男は、指先を患部に這わせる。ひやりとした感覚が、僕の身体を跳ねさせた。それにケラケラと、覆面の男が笑う。


「なーんか背徳的だな」


「やめろ」


 背後の男が諫める。だがそれに混ざって聞こえた何かが千切れる音は、止まることを知らなかった。


 覆面の男が吹き飛び、赤色が宙を舞う。獣の唸り声が耳に届く。確認するまでもない、カーンだ。偽りの姿が解けかけ、手や顔に獣の気配を滲ませた相棒。我慢の限界だったのだ。彼は倒れた覆面を睨みつけ、唇の隙間から鋭い牙を覗かせた。


「リオ様に触れるな、下衆が!」


「ああ、もうカーン、落ち着いて!」


 燃え盛る赤い瞳が、僕の後ろにいる男を捉える。冷たい刃が、ぐっと皮膚に押し付けられた。


「そ、そうだ。これ以上傷付けるつもりはない。傷付けさせるな。友人が馬鹿な発言をしたことは謝る。だから、頼む。大人しくしていてくれ。俺達は王と話しをしたいだけなんだ!」


「知るか、そんなこと」


 銀の毛に覆われ、変形した手に力が籠る。


 僕がいなければ、背後の男は生きていなかった。それこそ市場で売られている肉のように引き裂かれ、石の床を汚していた筈だ。カーンは、獣は、僕が傍にいるから、そして僕が人質となっているから、背後の男に手出しできないでいる。


「カーン、抑えろ」


「……いいえ」


「抑えろと言っている。僕の命令が聞けないのか」


 王と話しをしたい。だから僕達に――王やマリネラから依頼を受けた僕達に接触した。

 彼らの要求が明らかとなった今、それを無視して争うようなことはしたくない。しかしそんな僕の願いも空しく、神殿の入口から幾つもの足音がやって来た。それはカーンを取り囲み、槍や剣を構える。


 収まりを見せていたカーンの殺意を、再び煽った。

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