29話 鍵穴のない錠
カリュブディス。または魚人族の“母”。白の母。数百年の時を暗い谷で過ごしてきた、哀れな怪物。
そう彼女を紹介したマリネラが退出してすぐ、僕は魔術の解析に移った。その横で、王から貰った記録書をカーンが読み上げる。
魚人族の努力、かつて招待したという人間族の魔術士による挑戦。さらに、マリネラが僕を見つけたという報告まで記されていた。つい最近まで、記録書は更新され続けていたようだ。本を管理していた人物は存外
その応援を受け、〈封印の魔術〉と向き合っていた僕だったが、それは一向に弱点を語ろうとはしなかった。じっと口を噤み、怪物を覆い隠している。
「凄い、綻びが殆どないみたいだ。まるで度々掛け直されていたみたいな……。〈封印の魔術〉としては完璧に近いよ」
そう発する僕の声は、自分でも分かるくらいに弾んでいた。それをカーンが見逃す筈がなく、少し笑って、
「楽しそうですね」
「昔の魔術なんて、もう殆ど残ってないもん。ここで触れられて嬉しい。ただ、たった二百年でこんなに魔術の質が違うのは……ちょっと悔しいな」
魔族における魔術とは言葉に等しい。慣れ親しんだ言葉は、口の形や息の強さを意識せずとも発音できるように、僕達にとっての魔術もまた、半ば無意識の領域で構築されることが多い。
だからこそなのだろう、時として魔術は、予想だにしない方向へと変化する。僕達が対峙する〈封印の魔術〉もまた、その一つだった。
カリュブディスに施された術は、少なくとも指南書に書かれているような基本形ではなく、ただ封じることを目的としたものだ。解除の方法は全く考えられていない。
衝動に任せて邪魔者を牢へ入れ、二度と出て来れないよう錠を掛けた。その錠の鍵穴は、潰れてなくなっていると知りながら。例えるならば、そのようである。
錠の仕組みを知らない僕には、一寸の勝機すら得られなかった。そのような状況の中で、何とかして解決策を見出すことが僕の仕事なのだが、弱音を吐かずにはいられない。
僕はカリュブディスの周りを歩き回る。見つけた錆を一つ一つ突いてみるも、やはり解除の糸口は掴めない。
「丁寧に解いていくのは難しそうだね。かといって力尽くというのも……」
「魔力を貯めますか?」
力尽くで〈封印の魔術〉を打ち破る。それは不可能ではない。しかしその方法も魔術の一部であるがゆえに大量の魔力が必要になり、結果的に僕達を危険に晒すことになり兼ねない。
僕は急いで首を振った。
「やっぱりなしで。僕達が溺れる可能性がある。空気の泡の為に貯めた魔力も使ってしまうかも」
「それもそうですね。では、どう致しましょう」
「それを考えてるんだってば……」
僕は唸る。案の定詰まってしまった。一筋縄にはいかないと想定していたとはいえ、ここまで難題であるとは思わなかった。
僕は冷たい床に腰を降ろした。
「困ったな……。カーンは何か案ある?」
「いえ、何も。私は魔術に疎いので」
「そっか」
「ですがリオ様。一度基本に立ち戻ってみるのはいかがでしょう」
基本に。僕は目を瞬かせる。するとカーンは一つ頷いて、
「封印の方法とその解除法。確か以前、調べておいででしたよね?」
「うん、調べた。あの時は……魂を宿らせる研究をしていて、それから――」
取り出した魂を、異なる器に宿らせる。
興味から始めた研究だったが、あれは確か失敗に終わった筈だ。いや、欲しい記憶はそれではない。その前段階――魂を込める方法を求めていた際に〈封印の魔術〉に行きついて、僕はしばらくの間、置いていた主題そっちのけで文献を読み漁ったのだ。
僕は記憶を手繰り寄せる。
「封印は、肉体自体を固める方法、それ以外を押し込める方法。それから物に閉じ込める方法がある」
僕の研究においては、物に閉じ込める形の術を用いた。石に封じる、人形に込める。奪った魂を、他の肉体へ収めることも試した。
しかし、目の前に立つそれは違う。肉体を固められ、行動を禁じられている。意識の有無は不明だ。
仮に彼女に施された魔術が、「肉体自体を固める方法」のみであったとしたら、意識はきっと死んでいないだろう。どこかで眠り、あるいは今尚術から逃れようともがいているかもしれない。
僕の指先が膝を叩く。
「ということは、えっと……いや、まず解除の方法――そうだ。一から丁寧に解く方法と力尽くで破る応報があって、後者は内側と外側からそれぞれ可能で……」
はたと思考が晴れる。僕はその中で結びついた、たった一つの道筋にしがみついた。
「……できるの? そんなこと」
僕は呟く。希望ではあったが、それはあまりにも不確実で頼りなかった。
床に接した尻から、しんしんと冷気が這い上がってくる。
見上げたカリュブディスは応えない。全く動こうともしない。ただぽっかりと空いた天井を見上げ、口を――牙の見えない大きな口を、空へ食い付かんばかりに打ち開いている。
ただの大木にしか見えなかったそれが、今となっては、石にされてもなお上を向き続ける希望の象徴のようにも見えた。
本当に出来るのだろうか。自分で呪いを破るよう呼び掛けるだなんて。
「カーン――」
決意と共に僕は身体を持ち上げる。それは、赤い瞳がこちらを振り返るのとほぼ同時だった。
衝撃と共に、僕の腹を冷たいものが走った。見下ろした防寒具からは、赤色に濡れた銀の刃が突き出ている。それを自覚した途端、燃え盛るような痛みが全身を貫いた。
「解放なんてさせるかよ!」
知らぬ間に僕の背後を取ったそれは、力強く吼えた。
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