28話 母の寝床

 再び馬車に乗り込んだ僕達は、深い深い谷を下っていた。


 沈むにつれて窓外は闇を取り戻し、周りを泳ぐマリネラや、護衛と称して付いてきた他魚人族の姿もすっかり見えなくなってしまった。


 唯一の明かりは、馬車に取り付けられた〈明石あかりいし〉のみ――僕達が収まる狭い空間も、まるで夜のようだった。


「何も見えないねぇ、怖い怖い」


 そう言いつつも、僕は窓から目を離すことができなかった。ぼうっと照らされた闇の中に時折映り込む魚人族が興味深いのだ。


 彼らの下半身である尾びれの色は、どうやら個人によって異なるらしい。マリネラは瞳の色と似た淡い緑色で、隊を先導する魚人族は海に溶けてしまいそうな紺色だ。淡い赤色や、鮮やかな黄色の尾を持つ者もいる。


 それが力強く水を蹴る度に波がしなやかな身体を伝い、ぐんと前へと進む。あれだけ泳ぐことができたら、さぞ楽しいだろう。


「正解だったね、ニーナを連れて来なくて」


 先日の一件以来、僕達に同行することとなった少女は、王の申し出もあって、城に残す運びとなった。


 その判断は間違っていなかった。彼女なら、この退屈な時間を耐えられなかったのだろう。例え退屈しないようにと顔を見せてくれる魚人族がいても、効果はなかったはずだ。


 きっと今頃は、魚人族の用意する料理に舌鼓を打っているか、壁のように立ち並ぶ甲冑で遊んでいるか、あるいは地上に興味を持つ者達の玩具にされているかもしれない。


 それはそれで、ニーナにとって貴重な体験だろう。これを期に、もう少しだけ大人になってくれるとありがたいのだが。


 どうやら相棒も同感だったようで、彼は肩を揺らした。


「いかがです、リオ様。このまま、あの少女をスキュラの民に預けては」


「それはできないよ。約束したもん、オオカミ族の下に送り届けるって」


「……そうですね」


 懸念がない、という訳ではない。


 人間界のオオカミ族は、毛皮として狩猟の対象になっている可能性が高い。


 僕がニーナを連れて彼らの住処へ赴いたとして、僕が口封じのために処分されるならばまだしも、外部の人間がオオカミ族の住処の存在を知ることになれば、悲惨な結末を迎えることは必至である。それは何としても避けたい。


「リオ様」


「何?」


 僕を呼ぶ彼の声は、酷く角ばっていた。


「もしも――もしも私が、アレを殺してしまったら、軽蔑なさいますか」


 突然何を言い出すのだろう。数度目を瞬かせても、彼の真意は読み取れなかった。


「殺したら、怒る。当然だよ。彼女も一つの命だ。それを無駄に摘み取るような真似は推奨できない」


「私やあなたにとって邪魔になっても……ですか」


「そんなに殺したいの? ニーナを」


 彼は薄い唇を結ぶ。彼とて、結論には至っていないのだろう。本当に殺すのか、それとも生かしておくのか。


 カーンが獣人の少女の救出に肯定的だったのは、獣人が、獣人らしからぬ不当な扱いを受けていることに激怒した為である。「ニーナ」という名の少女を助けたかったからでは、ましてや彼女の帰郷に協力したかったからでは、決してない。


 一時の衝動の為に、彼は自ら首を絞めたのである。それを相棒は自覚し始めた。


「……まあ、そうだね。邪魔になったら、か……」


 僕は椅子に身体を預ける。向かいに座るカーンは相変わらず怖い顔をしていた。


 いつからだったろうか。彼が常に、苛烈な殺意を持つようになったのは。いつから彼は、こんなにも心休まらない生活を送るようになったのだろうか。


 心臓に撒き付く薔薇の蔓が、容赦なく締めあげる。声のない悲鳴が、どこかで響いたような気がした。


「……これも、僕の罰か」


 僕は身体を跳ね上げて、垂れた銀色の髪を見つめる。


「いいかい、カーン。キミが無理をして手を汚すことはないんだよ。僕達以外みんな敵だった頃とは違うんだ。ずっと気を張っていたら身が持たないよ」


 これから先、多くの人と出会うことになる。善人もいれば、悪人もいるだろう。それらすべてに気を向け、目をぎらつかせていたら、カーンもそれを止める僕も疲れてしまう。そうして共倒れなど、死んでも御免だ。


「これから先、何かの手違いで同行者が増えないとも限らない。カーンには、いっぱい迷惑を掛けると思う。でも……ごめん、我慢して欲しい」


「……分かりました。ですがリオ様。一つだけ――どうか一つだけ、私に慈悲を頂けませんか?」


「うん、僕に出来ることなら」


 赤い瞳が僕を見据える。昔から変わらない、穏やかで優しい目。それが滑稽なほど切な気に細まった。


「せめて御召し替えだけは、私に手伝わせてください」


 思ってもみなかった「お願い」に僕の口から情けない声が洩れる。次第に驚きよりも可笑しさが勝ってきて、狭い空間に僕の笑い声が響いた。


 明日から着替えの手伝いはいらない。そう発言したことが、余程衝撃だったのだろう。ニーナの挑発に乗った僕も大人げなかった。


「いいよ、分かった。明日からもよろしくね」


「光栄です。ありがとうござます……」


 頭を下げるカーン。その肩は震えていた。僕はそっと銀色の髪に指を通す。時々彼がやってくれるように。


   □   □


 母の寝床――そう呼ばれる神殿は、冷たい空気に覆われていた。日の光は一切届かず、それゆえか、まるで雪山のように辺り一面に霜が降りているような気さえした。


 先に訪れた砂漠の港で買っておいた防寒具が、ここに来て真価を発揮した。


 馬車の中で交わした約束の通り、厚手の服を僕に被せ、ボタンを閉めていくカーンの得意顔といったら、子供のように無邪気だった。しかしそれを着せてもなお彼は満足しないようで、自分の外套を僕に巻き付けて、ようやく僕を手放した。


「こんなにいいのに……」


「身体を冷やされては困りますので」


「僕の身体は冷えないんだってば」


「いいえ、冷えます」


「ええ……」


 ひどい暴論を繰り出すカーンに僕はとうとう折れた。


「分かったよ。じゃあ、借りておく。カーンは本当に寒くないんだね?」


「はい、私の身体は冷えませんので」


「冷えるでしょ」


 そう言いつつも、彼は一切寒さを感じさせなかった。カーンも僕と似た防寒具を着込んでいる為、外套一つで変わるとも思えないが、これは気分の問題である。


 だがいくら突き返そうにも、受け取ってしまった外套はかじかむ指先では外し難い。僕は大人しく、少し重くなった身体のままでいることにした。


「リオ様、カーン様」


 人間の形を取ったマリネラが近付いてくる。磨かれた床を進む足は、案の定素肌のままだった。冷たくないのだろうか。


「寝台は、質素なものではありますが、あちらに用意致しました。家具も、一通り準備しございます。ご自由にお使いください」


 そう彼女は神殿の一角を示した。円錐状に建てられた二張の幕。その近くには椅子や机といった調度が置かれている。魚人族も、僕達が使うような家具を用いて生活しているのだろうか。僕は不思議な気分になった。


「ありがとう、助かるよ。……で、キミ達のお母さんは? どこに封印されてるの?」


「こちらです」


 マリネラは歩き出す。彼女の足は、神殿の奥を目指していた。


 淡い光に映し出される空間は、進むにつれて姿を変えていく。天井はごつごつとした岩肌を剥き出し、壁もまた他人の手を経ていない。入口付近こそ荘厳に作られているものの、それより奥まで手は回っていないようだ。


 申し訳程度に取り付けられた〈明石〉達が、どこまでも続く洞穴をぼうっと映し出していた。


「思ったよりも広いんだね」


 僕の声が僅かに響く。先を行くマリネラはふと足を止めて、外套の端を揺らした。


「ここは元々、“彼女”が住処としていた洞窟なのです。一対の母の信仰が始まってから、このような神殿に建て替えられました。ですので、これだけの広さを確保できたのですよ」


「そうなんだ。詳しいね、マリネラ」


「恐縮です」


 そう会釈をして、マリネラはふいと背後を見遣る。


 彼女の後ろには岩があった。ぽっかりと空いた天井へ向けて身体を伸ばす、長大な彫刻。床に接した部分からは幾本もの短い根が生え、見ようによっては大木の化石にも取れる。


 うっすらと鱗の模様が浮かぶ岩肌を、マリネラが撫でる。影の降りた顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


「彼女はカリュブディス。別名、白の母。これこそが、あなた方に助けて頂きたい怪物です」

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