27話 胃痛の少年

 光の中に降り立った馬車は、なかなか口を開かなかった。


 水の跡が残る窓の外では、地上の人々と大差ない格好が忙しなく動いている。


 時折躓き、あるいはピョンと跳ねてみせるあたり、どうやら地面を歩くことには慣れていないようだ。


 彼らはマリネラと同じく、魔術を用いてヒトの姿を得た魚人族であるらしい。足があり、簡素ではあるが服を纏い、指先まではっきりと分かれている。僕達を迎える為に張った空気の中でも動けるように、との選択であろう。


 国を挙げて歓迎している。その熱が、そして重圧が、ひしひしと感じられた。


 恐怖か絶望か、これまでに見たことがないほど酷い顔をしているカーンの背を摩っていると、重い音と共に楕円の扉が開いた。籠った空気に身を刺すような冷気が流れ込む。ぶるりと身体が震えた。


「お待たせ致しました。ここがわたくし共の街、オロペディオです」


 白い手が、切り立つ水の壁を示す。


 バルコニーと思しき高台から見下ろす先には、多くの光が集まっていた。ぼんやりと映る岩肌に壺状の家々が貼り付いている。それぞれから、そして道端に建てられた柱から、色とりどりの光が零れる。これが、馬車の中から見えた光の正体であろう。


 その光へ向けて、僕はそっと手を伸ばしてみる。すると、境目が消えた。指先は水へと飲まれ、それを抜けば再び薄い膜が張られる。指先に残る仄かな痺れを残す冷たさが、僕がこれまで水に触れていたことを物語っていた。


「凄いな……こんなに近くに街が見える。いいなぁ、いいなぁ。探索したいなぁ」


 これまで接点のなかった魚人族。その暮らし振りや都市を目にするのは初めてだ。探究心を抑えられるはずがない。許されるならば今すぐにでも柵を乗り越えて、星空の如き薄暗闇へと繰り出したいところだ。


 だが、そう簡単にいかないようだった。マリネラは眉尻を下げて小首を傾げる。


「申し訳ありません。城下街をお見せできるほど、準備を整えてはいないのです」


「そっか……そうだよね。ごめん、無理言って」


 以前マリネラが口にした「外気の泡」を用いた魔術は、随分と多くの魔力を必要としているらしい。


 人間界の自然では到底拝むことのできない量が、この地には集められている。ここ数日で貯めたのか、それとも気の遠くなるほど前から、来たるべき日に備えてコツコツと集めていたのか――どちらにせよ、彼らの忍耐力には驚愕を隠しきれない。


 僕が尋ねるよりも先に、そっとマリネラが囁く。


「魔力を操作している部屋に興味がおありでしたら、後で案内いたします」


「本当? ありがとう!」


「いえ――その前に、王が待っておいでです。先にそちらの方に……」


「え、王?」


 マリネラが視線を向けたのは、建物だった。どこまでも広がる海の向かい、鮮やかな光に彩られた長く続く廊下の先には、大きな扉が見て取れた。あの先に「王」がいるのだろう。拳の中、じっとりと重い汗が滲んだ。


 僕の目が荷物を捉えたのは、少しでも謁見から逃れたかったからだろうか。だがマリネラは今回ばかりは見逃してくれなかった。


「荷物は部屋に直接お持ちします。そのままで結構ですよ」


 と、早々に僕の退路を塞いだのだ。


「……ありがとう。本も入ってるから、濡らさないでもらえると嬉しいな」


「伝えておきます」


 さあ、こちらへ。そう僕達を導くマリネラは、ほんの少しばかり強引だった。有無言わさぬ貫禄が、彼女の身体から匂い立つ。それに逆らえるほど、僕の気は強くなかった。


 マリネラを先頭に、僕、カーンの順で、貝殻が埋め込まれた床を進む。それから少し遅れて、忙しなく辺りに視線を配るニーナが続いた。


 空気に満たされた通路は、色とりどりに輝いていた。よく見てみると、光の源と思しき塊に色の付いたガラスが被せられている。


「ねえ、マリネラ」


「はい」


「照明に使っているのって〈明石あかりいし〉?」


「はい。〈明石〉に瓶を加工したものを被せています。すべて民の手製なのですよ」


 〈明石〉は僕達が先に尋ねた砂漠でも、光源として用いたものだ。平生はそこら辺に転がっている石と大差ないが、魔力を送ることで白く淡い光を発するようになる。


 僕にとって〈明石〉とは、松明を用意しなかった際や失くした時に用いる、あくまで非常用の道具であったが、魚人族は考え方を異にするようだ。


「へえ、綺麗だね」


「ありがとうございます。民も喜びます」


 そう静かに言ったマリネラは、目の前に迫っていた扉に手を添える。見上げるほどに大きな戸だったが、然程強い力を掛けられることなく、音もなく滑らかにその口を開いた。


 広がっていたのは、まばゆい空間だった、床を一直線に彩る赤い絨毯。天井を支える数本の太い柱の間には、白い布と軽い鎧とを身に着けた人々が立っている。それらを煌々と照らし出しているのは、天生から吊るされた大きな照明だった。


 謁見の間とは、どこもこのようなものなのだろうか。両脇に立ち並ぶ兵士の間をすり抜けて、僕達は玉座――大きな二枚貝のような玉座の前まで進み出る。膝を折り、頭を垂れるマリネラに、慈愛に満ちた深い視線が注がれた。


「王、客人を連れて参りました」


 そう紹介されて、僕もカーンも胸に手を当てる。


「お初にお目に掛かります、スキュラの王。私はリオ。こちらは……付き人のカーンです。それから――」


 と、僕はあの少女を探す。彼女は謁見の間にすら足を踏み入れていなかった。大きな扉に縋りつき、開閉を繰り返している。それは誰にも咎められず、物珍し気な兵士達の視線を集めるばかりだ。


 さっと背筋が寒くなった。僕はその名を呼ぶ。ふわふわの耳がピクリと動いた。


「なぁにー、リオー」


「こっち。こっちにおいで!」


「なんでー?」


 文句を垂れつつ、ニーナはこちらに駆けてくる。その到着を待つ僕は気が気でない。王に不敬を働けば情報を得られないどころか、空気のない海中に放り出され兼ねないのだ。そうなれば、僕達の旅路は潰える。


 だがそれは杞憂であったらしい。穏やかな笑い声が、どこからかふつふつと湧き上がってきたのだ。


「子供とはよいものですな。もしや、お二方のお子様で?」


 ぎょっとした。何を言い出すんだ、この老王は。慌てて否定すると、王は豪快な笑声を響かせる。


「でしょうな。魔族は我々と身体の構造が異なると聞きます。それでよく血が途絶えないと――おっと、話が過ぎましたな。して、そちらのお嬢さんは?」


「ニーナはニーナだよ。バルトのオオカミ族のニーナ!」


 再びぎょっとした。


 そうだ。この子には相手を敬った物言いをするという考えがなかったのだ。しかし王は寛大だった。「よい、よい」と人の好さ気な笑みと共に頷く。


「子供は元気が一番です。――改めて、私はレヴァン。ここ、オロペディオの王を務めております。……お三方には、私達の“母”を解放していただけるとか」


「ええ。……しかし実のところ、私達も自信がなくて。できる限りのことは致しますが」


「そうですか。魔族の方でもそのような状態とは。我々や人間に解ける筈がありませんな」


 そう言って、王は再度笑声を響かせる。海底の都を治める王とは、てっきり暗闇のように冷たく、あるいは存在するだけで息苦しくなるような人物とばかり考えていたが、どうやら僕のそれは間違っていたようだ。想像よりもずっと人間染みている。


 強張っていた肩が緩んだように思えた。


「よろしければ、これまでどのような手順を試したのか、お教え願えますか?」


 僕がそう言うと、レヴァン王は快諾する。そして近くの男に指示を出した。段の下に控える、小綺麗な衣装を纏った男は、どうも兵士とは異なるようだった。その男からより若い男へと指示は渡され、形式ばった遠回りを経て、ようやく僕の元に一冊の本が届けられる。


「それは“母”の呪いにまつわる事象を纏めたものです。お役立てください」


「あ、ありがとうございます」


 驚きのあまり舌が絡まる。まさか海中都市でも記録の媒体として本が用いられているとは、思ってもみなかったのだ。最近幅を利かせてきた亜麻や木材等の植物から成るという用紙は水に弱く、また羊皮紙も水中における資料の保存に適しているとは言い難い。


 そんな紙の塊である本は、どのように保管されているのだろうか。柔らかい小口を撫でて、僕の想像は膨らむ。


 しかし僕にそれを追求する暇はない。ここに――海の中に滞在できる時間は限られているのだ。王が許すならば、すぐにでも出発したい。あわよくば早く用事を済ませて、探究心を慰めたい。


 本心を隠しつつ早々の出立を申し出ると、王は快く承諾した。


 話の分かる王でよかった。僕はほっと胸を撫で下ろした。

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