24話 ニーナ
「ぐえっ」
暗闇の隙間を縫って溢れた呻きと共に、僕は覚醒した。突如として釣り上げられた意識は夢と現の狭間を彷徨い、飲み込めぬ現状に目を白黒とさせる。
腹の上には重み。しかしそれはすぐに取り除かれ、代わりにゴトンと何かが落ちる音が聞こえた。
霞む視界に色が戻る。僕の横たわる寝台の近くに、相棒が立っていた。その表情にはどこか焦りに滲んでいる。まさか寝込みを襲われた訳でもあるまいに、と思ったところで、先程の衝撃と重みが蘇った。
「おはようございます、リオ様」
「おはよ……て、あれ。僕、いつの間に寝て……?」
身体を持ち上げ、眠気の残滓を振り落とす。その中で、見慣れない毛玉が転がっていた。昨日助けた、獣人の少女。耳をぱたつかせ、きょとんとした様子でこちらを見上げる。
先程の音は、彼女が落ちた音だったのだろうか。僕に圧し掛かった獣人を、カーンが慌てて突き落とした――ようやくその事態を飲み込んで、僕はあっと声をあげる。
「だ、大丈夫? カーンやりすぎ!」
「う……も、申し訳ございません」
まるで親に叱られた子供のように、カーンは肩を竦めた。その反応があまりにも予想外で、思わずぎょっとした。きつく言い過ぎただろうか。
身体を起こした僕は右へ左へと視線を動かす。どちらから声を掛けるべきか。僕が悩んでいると、茶色の毛玉が布団の上に飛び乗った。くりくりと動く橙の瞳。黒い鼻が、僕の鼻と触れ合ってしまいそうなほど近付く。
「おはよ!」
「お、おはよう……?」
曖昧に応じると、それは膝を進めて、より僕に詰め寄る。
「あのね、あのね、ニーナね、夢見なかったの久し振り! いっぱい寝れて嬉しい! お船の上はぐらぐらして怖くて寝れなかったの。だからね、とてもスッキリした! あとね、お腹空いた!」
そう
昨日の暮れ、獣人を助けてからというもの、幾つかの言葉を僕達は交わした。その時の彼女はしおらしく、僕の問いに一つ一つ答え、時折軽い愚痴のようなものを洩らす。少なくとも今よりは会話できる態度だった。一晩ぐっすり休んで本来の調子を取り戻したのであれば幸いだが、その豹変振りに頭が付いていかないのも事実だった。
そんな僕を見兼ねてか、カーンの大きな手が獣人の首根を掴む。ぐえ、と今度はそれが鳴いた。
「リオ様が困っておられるだろう。後にしろ」
「えー」
ぱたぱたとそれは尾を揺らす。抗議の言葉を口にするが、カーンの眼光に射抜かれると、まるで拗ねたように口を噤んだ。
その獣人はニーナと名乗った。濃茶色の毛に橙色の瞳を埋めた、オオカミ族の少女。先月生誕から四年を迎えたばかりの、子供の獣人だった。
あどけない顔のそれは、慣れた様子で後ろ足を立たせると、ぐっと背筋を伸ばした。
彼女が立つ所を正面から見るのは初めてだ。ぽかんと目を丸めていると、彼女はどこか得意気に微笑んで、くるりと回る。微かに汚れたワンピースの裾が、ふわりと僕の鼻先を掠めた。
「これ、珍しいの? ランボーな人も同じこと言ってた」
ニーナはちらりとカーンを窺う。『ランボーな人』とはカーンのことか。僕は思わず噴き出した。一方のカーンはというと、僕を一つ眇めるばかりで、気にしていないようだ。
「そう、だね。うん、オオカミ族でそれは初めて見たかも」
「ふーん」
興味ないのだろう。鼻を鳴らして座り込んでしまった彼女は、居心地悪そうに身体を揺らすと、伸ばした僕の足の間に腰を沈めた。
獣人、オオカミ族。それは魔界にも存在する。魔族に属する僕の出身地であるそこでは、獣人と言えば獣の姿をより濃く残しているものだった。だからニーナのように二足歩行をする獣人は少なく、喋ることを除いては、獣と何ら変わりない。
「じゃあ、ニーナの家はここじゃないんだね」
船に揺られたと話す彼女だ、このオパール港や周辺に実家があるとはし難い。
耳を伏せ、あからさまにしょぼくれた少女に、僕は狼狽えるばかりだった。橙の瞳には早くも水の膜が張り始めている。子守りの経験がない僕ではどうしようもない。
しかし僕の心配は無用であったようだ。大きく、僕の頭を飲み込んでしまいそうなほど口を開けたニーナは、あまりにも呑気な
檻の中から見た光景、同じ境遇の人々のこと、たまたま口に入れた虫の話、さらには自分の故郷のこと等、彼女の話題は尽きない。淡い日の差し込む部屋には、コロコロと鮮やかな声が咲き乱れた。
彼女の言葉は拙いながらも感情が籠っていた。不安の
自分の境遇から目を逸らしている――そんな痛々しさは一切見られず、初めて見た景色や経験を、貪欲に吸収していた。
知らぬ間に聞き入っていた僕だったが、ようやく思い出す。大金を払ってまで彼女を助けた理由を。
「ニーナ、家に帰りたいんだよね。家、どこ?」
「どこって?」
「ほら、住所とか国の名前とか……」
「分かんなーい」
愕然とした。帰る家が分からないならば、僕にはどうしようもない。彼女を家族の元へ返す計画が、うす暗い雲に覆われた。
「じゃあ、何か特徴とかは?」
「んっとね、お山があるの。大きくて、時々はーって息を吐く山!」
「はー、って?」
まるで手を温める時のように、籠った息を吐き出すニーナ。それを真似してみるが、それが一体どのような「山」なのか、皆目見当もつかなかった。
「……本当に、はーって?」
「あれ、違ったかも。ぶふー、だったかも」
余計に分からなくなってしまった。器用に唇を鳴らす少女を見、相棒を仰ぐ。彼にも心当たりはないようだ。
これは困った。自分の家がある場所すら覚えていないだなんて予想外だ。あまりにも衝撃的で繰り返し同じことを尋ねるが、回答は変わらない。僕は頭を抱えた。
「もしかして、とんでもない厄介事に首を突っ込んだんじゃ……」
「……捨てて来ましょうか」
「いやいや、待って。真に受けないで。早まらないで」
躊躇う様子一つ見せずに獣人を放り出そうとする相棒を引き留めて、僕は深く息を吐いた。
獣人すら毛皮として利用する男の浅ましさを目にした僕達は、怒りと、あるいは哀れみを持って少女を助け出した。目の前にある命を、ひとまず手中に収めた。それが例え一時凌ぎでしかなく、いずれどこかの誰かを危険に晒すための「儲け」になったとしても、当時の僕達には、そのように振る舞うしかなかった。
後悔はしていない。だが、気が重いことは確かだった。
「ねーねー」
ふと黒い鼻面が動く。沈んだ空気には目もくれず、ニーナの瞳はこちらを見上げていた。
「ここに住んでるの?」
「違うよ。僕達は……海の向こうから来たんだ」
「向こう? なんで?」
「なんでって……ええっと、旅行?」
本来の目的を話しても、幼い彼女には理解できないだろう。そう思って口に出したものの、僕達の旅は実際の所、娯楽のそれに近い。嘘らしい嘘ではなかったなと、僕はキラキラと輝く瞳に向かいながら口角を持ち上げた。
「そうだ――あのね、ニーナ」
呼び掛けたその時、不意に戸が叩かれた。出掛けた言葉を飲み込んで、硬く閉じられた板を見遣る。聞こえてきたのは控えめな声だった。
「お客さん、お客さん。ちょっと宜しいですか」
「はい」
応じて立ち上がると、軋む音と共に扉が開く。宿屋の主人は、僕達が取り込み中であると知るなり軽く足踏みをするが、やがて決心したように、
「女の人をお連れしましたが……」
「女の人?」
男性は道を開ける。ぺた、ぺたと床を叩く音。進み出たのは、見覚えのある外套だった。
黒い覆いに、零れる淡い金色。その下から覗く瞳は、穏やかな緑色を湛えている。それは紛れもなく、僕達を海へと誘った女性だった。
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