25話 簀巻きにしたい

「マリネラ!」


 見た目麗しい魚人族は、黒い外套の裾を揺らし、傷一つない素足を進める。彼女は最初の会談の日を、そっくりそのまま貼り付けたかのような様相をしていた。


 春も終わりに近付き、初夏同然のこの季節だ。頭から足元まで黒の外套で隠しては、さぞ暑かろう。よく蒸し魚にならなかったものだ。


 感心する僕を余所に、マリネラは腰を折る。会釈をし、淡い光を湛える瞳をこちらに向けた。


「お迎えに参りました。……が、もう少し待った方がよいですか?」


 その言葉で、僕は改めて自分が置かれている状況を把握した。


 寝台に座り込む僕と、その間近に迫る獣人。傍らには顰め面カーンが立っている。子供の戯れと切り捨ててしまえば特に問題はないのだが、それにしてはカーンの表情が厳しい。


 まさか、修羅場と勘違いされたのではなかろうか。それは全くの誤解だ。


「だ、大丈夫、大丈夫! ごめん、今用意するね」


「いいえ、お気になさらず。時間はありますので」


 そう言ってくれるマリネラだったが、慌てない訳にはいかない。無駄に近い鼻面を押し退け、跳ねた髪を撫でつける。解いたままだったズボンの紐を結び直して、ようやく床に足を降ろした。


 カーンが持って来た上着に腕を通し、もたつきながらボタンを掛けていく。いつの間に掛け間違えたのか、前身頃が歪な形に仕上がった。それに苦笑を浮かべつつ、カーンが修正を加える。


 てきぱきと準備を進めている――つもりだったが、やがて傍らからくすくすと音が聞こえてきた。布団に転がったオオカミ族の少女。それが、どこか揶揄するような色を滲ませながら肩を揺らしている。


「一人で着替え、できないの? リオ、子供だね~」


 ニーナは一人でできるもん、と彼女は誇らし気な表情を見せる。それにムッとしない僕ではない。綺麗に仕上がった服を見下ろし、苦し紛れに一つのボタンを掛け直した。


「カーン、明日から自分でやるから!」


「え……ですが――」


「やるったらやる!」


 宣言する僕を見つめるカーンは、しばし戸惑った後眉尻を下げた。親とはぐれた子犬のようだ。だがそれを慰める余裕は、今の僕にはない。


 僕はこれまで、カーンに手伝ってもらいながら衣を替えていた。それが当たり前だった。きっとカーンも同じだろう。


 ボタンすら碌に掛けられない僕を補佐し、完璧な仕上がりに二人揃って満足する。しかしその日常を、子供のようだと馬鹿にされて黙っていられるはずがない。その相手が、四歳のオオカミ族の子供であるならば尚更だ。


 これは宣戦布告だ。カーンには悪いが、僕にも意地がある。


 決意を胸に刻んで、僕はマリネラへ向き直る。彼女は依然として、部屋の中央に佇んでいた。彫刻のようだ。瞳に翡翠を埋め込んだ女神像。ぼうっと虚無の空間を眺めていた彼女は僕の視線に気が付くと、小さく頭を揺らした。


「待たせてごめんね。ええっと……もう出発する?」


「準備はできております。いつでも」


 穏やかに頷き、マリネラは部屋の隅に寄せていた椅子に腰を降ろした。こちらのことは気にせず、準備を進めてくれ。そう言っているかのようだ。


 寝台やその脇に置かれた棚、さらには机に散らばった物を掻き集め、一つ一つ鞄の中に入れていく。僕達の荷物は食糧や衣服等の必需品を除くと、圧倒的に本が多い。


 以前立ち寄った砂漠の港で手に入れた魔界の大型本を始め、冊子から巻物まで、およそ十種類の書物が鞄を占領している。衝動に任せて購入したはいいものの、それが重荷となっていることは確かなのだ。


 どこかで処分しなければ。そう思いつつ、僕は本を捨てられずにいる。


 重くなる肩を回し、僕はぼんやりとした様子のマリネラに声を掛けた。


「ところで、僕達はどのくらい世話になれる?」


「二日……多くて三日でしょうか。それ以降は術を保つ自信がありません」


 三日。それが時間制限か。僕は唸った。


 僕はこれまで、魔術に多く触れて来たつもりだ。しかし封印のそれとなると話は別だ。〈封印の魔術〉が日常生活に用いられることは殆どないし、あったとしても、大抵はその未知の者が片付けてしまう。


 基礎的な知識は持っているのだ。先人の英知を学びつつ、解除の手順を模索するつもりだったが、事情が変わった。


「あの……何か問題でも……?」


 覗き込むようにマリネラが尋ねてくる。僕は緩く首を振った。


「正直自信はないけど……三日で、できる限りのことはやってみる」


「ありがとうございます」


 深々と腰を折るマリネラ。肩から落ちた一束が、床を掠めた。


 自信がない。そう発してもなお、彼女の態度は変わらなかった。余程待ちわびたのだろう。彼女らの母の解放を、楔を打ち込んだ魔族の再来を。


「ねーねー、どこか行くの? 何しに行くの?」


 ぐしゃぐしゃに乱れた寝台を跳ねさせながら、ニーナが声を掛けてくる。埃を散らしても物ともしない彼女の目は、あまりにも純粋な光に彩られていた。


 そういえばニーナには話していなかった。話を切り出そうとした所で、中断せざるを得なかったのだ。そして、その理由となったマリネラにも事情を説明していない。連れが増えた、その訳を。


 身支度こそ進んでいるものの、それだけでは準備が済んだとは言い難い。とりあえずマリネラへ、獣人の少女を引き取った経緯を伝えようとすると、彼女はふと微笑んで、


「事情はお察しします。やはりあなた方は、過去に出会った魔族とは違うようですね。調整はこちらで致しますから、どうぞお気になさらず」


「本当? よかった、ありがとう」


 本当に有り難い限りだ。マリネラが同伴を拒否したら、少女を一人、この宿に残すしかなかった。僕の肩は安堵のあまり自然と下がっていた。しかし問題は少女の方だ。


「ニーナ、一緒に来てくれる?」


「どこ行くの?」


「海だよ」


「えー。ニーナ、海きらーい」


「そんなこと言われても……。ニーナが来てくれないと僕が困るんだよ」


「ニーナは困んないもーん」


 そう言って、彼女はそっぽを向いてしまう。


 これは困った。唸りをあげる僕はまるで気にも留めず、ニーナは布団の上を転げまわる。


 背丈は僕と同じくらいの少女でも、ここまで自分本位の言動を取りたがるだなんて。四歳児とはこうも御転婆なのか。


「あのね、僕達はマリネラの手伝いをするために海に行くの。その時にここを引き払わないといけない。だから、ニーナが僕達に付いて来ないとなると、ニーナは新しく寝場所を探さなくてはいけない。もちろん僕達と別れる訳だから、家にも帰れなく――」


「やだー、お家帰るー!」


 ごろごろと布団の上を転がる毛玉。僕はずいと身を乗り出して、それに畳みかける。


「じゃあ、一緒に来てくれるね?」


「お水やーだー!」


 キャンキャンと喚くそれに、僕は頭を抱える。僕も衝動のままに転げまわりたい気分だ。


 これまで僕が関わりを持ったことのある子供は、子供といえど物分かりのよい子達ばかりで、駄々を捏ねられることはなかった。だから僕にとって、ニーナの性格は未知だった。扱い方が分からない。


巻きにしましょうか」


「やめよう、それはやめよう。流石に可哀想」


「では、どうなさいますか。私に幼子をあやす術はありません」


「うーん。……どっちか残る?」


「嫌です」


 説得が難しいのならば、と発した僕の意見は、包丁よりも鋭くばっさりと斬り捨てられる。相当嫌なのだろう。赤い瞳には、時折見せる頑固さが浮き彫りになっていた。


 その時、僕の視界に白い素足が割り込んできた。毛むくじゃらの生き物が珍しいのだろうか、マリネラは布団にしがみつく少女をじっと見つめていた。


「お困りでしたら、わたくしが説得しても?」


「助かるよ、お願い」


 マリネラは膝を折り、ミノムシに向けて小さな囁きを送る。紅一つ差していない、しかし艶やかな唇が言葉を紡ぐ。ニーナは応じない。じっと耳を傾けるその様は、従順たる信徒のようだった。


 僕の前でもこうだったらよいのに――そう複雑な気分になりつつ見守っていると、突然ニーナの耳がピンと跳ね、鼻が持ち上がった。


「ニーナも行く! 絶対行く!」


 見事なまでの手の平返しに、僕も相棒も顔を見合わせる。一体何を言い、どのように説得したのか。僕にはさっぱりだった。

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