23話 旅に疲れた蝶

 己が主人と、それが気に入ったらしい小娘を宿へ預けた後、カーンは再び路地を訪れていた。


 すっかり帳の降りた小道は、先程よりも強い臭気に満ちている。胸が焼けるほどに甘く、一方でどこか酸味のある気色悪い香。それは明らかに男を誘うために撒かれた蜜のようだった。


「おや。これはこれは、夕刻の!」


 布の奥から男がやって来る。腹は膨らみ、だらしない背格好のそれは、ふやかしたパンの如き手を擦り合わせる。


 相変わらず気色悪い。カーンは顔を顰めた。


「何かお探しですか。――ああ、もしかして買って頂けるのですか! ありがとうございます。本日は旅に疲れた蝶が泊まっておりますよ」


「ここに淫魔がいるだろう。連れて来い」


「いん、ま?」


 きょとんとした男は、すぐに表情を笑みへと書き変える。


「やだなぁ、旦那様。そんな名前の娼婦はおりませんよ。そんなの、まるで売りをするために生まれてきたみたいじゃ――」


「いいえ。ここにいてよ、色男さん」


 艶やかな声と共に現れる女。それは壁へと寄り掛かり、真っ赤な唇を歪めた。


「来てくれて嬉しいわ。さ、中で話しましょ。ここは少し騒がしいもの」


 女性は長い裾を引き摺って、布の中へと戻って行く。戸惑う店主の横を通り抜けて、カーンもそれに続いた。


 布の先には扉があった。その先には通路が伸び、接する壁には多くの扉が口を閉じて並んでいた。進むにつれて例の香が濃くなる。媚びる嬌声が、それを打つ肉の音が、淀んだ空気の中で微かに響いていた。


 導かれたのは最奥の部屋だった。広い寝台が、ただ一つ置かれた空間。何を意図して作られた部屋かなど、訊かずとも明白である。


「単刀直入に問おう。何が目的で、あのようなことをした」


「……何のことかしら?」


 後ろ手に戸を閉めたそれは、ゆっくりとカーンに近付いてくる。甘ったるい花の香りを散らしながら、ごく自然に男の背後を取る。しなやかな指が、カーンの腕を撫でた。


「私はただ、お願いされただけよ。蜜を撒いて虫を引き寄せるようにと。――ふふ、主人を取られまいと必死なのね。誠実なヒトは好きよ」


 絡みつく腕を払って、カーンはそれを見下ろす。艶やかで怪しい視線それが赤い瞳を見上げて、再び擦り寄ってきた。


「ここで魔族に会うなんて何年ぶりかしらね。ああ、滾るわぁ……食べてしまいたい」


 女の手がカーンの腰を撫でる。身体を押し付け、赤い唇を舐める。


 あの香りが一層強くなる。淫魔の蜜――淫魔が淫魔としての働きを全うするために用いられる独特の香。


 誘惑しているのだ。カーンを、雄を、獣を。


「我慢できないでしょう。人間の女なんて、ちょっと抱けばすぐに潰れてしまうものね。けれど私なら、あなたの全てを受け止められる。有り余った欲を、この身体で」


 彼女の肩から布が零れ、白い胸が露わになる。女の細い指がカーンの手を絡め取り、自らの肉へとそれを押しつけた。


「ね。遊んでいかない? 同じ魔族だもの、きっと楽しめるわ」


 弧を描く淫魔の唇。対するカーンは感情を浮かべていなかった。紅の双眸を以って妖艶に笑む女を見据え、そして、その心臓を貫いた。


 女の目が開かれる。零れ落ちてしまいそうな目玉がカーンを、そして自分の胸を見下ろし、牙を剥く。


 その豹変振りは、化けの皮を剥がされた悪魔そのものだった。


「下手に出ればいい気になりおって、青二才が……!」


「喚くな、鬱陶しい」


 カーンの手に魔力が集まる。それは瞬間に火を成し、女の身体を内側から炙った。甲高い悲鳴が青年の耳を劈き、部屋中を駆け巡る。もがく女体を押し倒したカーンは、口紅を褐色の手を以って押さえつけ、声を殺した。


「哀れだな、魔の者といえど知らぬか」


 ぎょろりと浮き出た眼球がカーンを捉える。反発の色の消え失せた瞳は、恐怖と懇願に塗られていた。躊躇いなく栓を引き抜くカーンは、それを鼻で笑う。


「折角の機会だ、よいことを教えてやろう。魔族における主従とは、お前が思っているよりもずっと深い」


 カーンは皺一つない寝台から布を剥がし、己の腕を拭く。肌に付着した血液ならばともかく、服に染み込んだそれは、どうにもならなかった。


 魔の者の血は穢れだ。洗濯ごときで落とせるような汚れではない。


 舌打ちと共に汚れた布を放り出し、男は再び、今なお伏せる女と距離を詰める。娼婦は重い身体を引き摺り、懸命に逃れようとしていた。自ら施錠した戸へ縋り、開かない、開かないと譫言を洩らす。


 出血は然程していないようだった。〈火の魔術〉の追い打ちが、有意に働いたようだ。尤も、女にとっては地獄そのものであっただろうが。


「ついでに一つ訊いておこうか。同じ魔族なのだ、楽しませてくれるのだろう?」


 女の肩を蹴り上げ、仰向けにする。曝け出された細首目掛けて、カーンは自らの靴を捻じ込んだ。ぐしゃぐしゃになった顔が苦痛に歪む。


「ぐ……な、何……?」


「魔界は今どうなっている?」


「ま、魔界? 知らないわよ。行ったことないもの……」


「魔界を知らぬ魔の者か。何とも皮肉な話だ」


 男の爪先に力が籠り、悲鳴が潰れた喉を通る。踏みつける皮を色付いた女の爪が掻き、乱れた服から白い腿が露わになる。それはカーンの劣情を煽るどころか、嫌悪を増幅させる結果にしかならなかった。


「は、話した、じゃない!」


「だから何だ? 話したから、見逃してもらえるとでも思ったのか? 残念だったな。お前はすでに後戻りできない位置にいる。俺の主を苦しめたのだ。これは粛清に値する」


「ま、待って、お願い! あ、あれは頼まれただけ――」


 足の下で小枝が折れる。血に濡れた手がカーンの足を掴むが、それはすぐに摺り落ちた。


 音の消えた部屋に、ただ血液が広がり続ける。無残に穿たれた胸は黒く変色し、芳ばしい香りを漂わせていた。それを一瞥して、カーンは汚れた靴の裏を女のドレスで拭いた。


 黒に赤は映えない。それが血であれば尚更だ。目に見える穢れが拭われると同時に、カーンの身体には女の匂いが塗り付けられる。そうと気付いた時にはもう遅かった。


 どこぞの甘い匂いを付けて帰っては、外出中の行いを赤裸々に暴露しているも同然だ。やましいことは一つとしてないが、敏い少年ならば邪推も易いものだろう。


 脳裏に浮かぶ少年の顔。その表情はひどく男を軽蔑し、落胆していた。



 足音を殺して戻って来た部屋では、見慣れた小さな身体が起き上がっていた。


 部屋に据えられた二つの寝台のうち一つ。壁に背を付け、緩く組んだ胡坐の上に大きな本を乗せている。頁をめくり、大して間を置かずに羊皮紙を揺らす。どこか遠い目の少年は、深夜の逢瀬から帰ったカーンを一瞥した。


「おかえり」


「ただ今戻りました。体調はいかがですか?」


「大丈夫、よくなったよ」


 再び黄ばんだ紙面に視線を落とした少年に近付くと、それは慎重に本を閉じる。仄かな月明りの差し込む部屋の中、その仕草が妙に際立って見えた。


「あのさ、カーン。……行って来たんでしょ。何が理由だった?」


 少年リオは、赤い双眸を見上げる。己の身体に起こった異変。今ではその残滓すら見えない症状に、微かな不安と強い好奇心を持っていた。


 カーンは迷う。正直に打ち明けるかどうか。


 リオは身なりこそ子供のそれであるが、彼が紡いできた時間は恐ろしく長い。カーンと同等かそれ以上か。少年の記憶から掻き消えてしまう程長い時間を、子供の身体で過ごしてきたのだ。


 意固地になって口をつぐむ程ではない。しかし知ってほしくないというのも事実だった。リオが知れば、きっと快くは思わないだろう。それどころか嫌悪感を露わにするかもしれない。だがカーンは、悩みに悩んだ末、結論に至った。


「淫魔です」


「淫魔?」


「異種間において子を成せる、ほぼ唯一の種族――いえ、悪魔のことです。それが発する香が、おそらくリオ様が具合を悪くされた理由でしょう」


「そんな人もいるんだ……でも、何で僕だけ? カーンも感じたんでしょ、アレ」


 カーンは口をつぐむ。沈黙した銀髪の男を見つめる瞳が、徐々に開かれていく。澄ました童顔に外見相応の表情が戻る。


「まさか、匂いしなかったの?」


「私には、感じられませんでした」


「な、なんで……?」


「あまりお聞きにならない方が――」


 そうカーンが進言してもなお、リオの追及は止まなかった。顔の色を悪くしていながら、探究心は堪えられないらしい。


 気の乗らない青年をリオは急かす。とうとう折れたカーンは、できる限り深刻になってしまわないよう、いつもの調子で話を進める。淫魔の香はリオを狙って発せられたのだ、と。


 リオは愕然としていた。言葉を失い、戸惑うそれは、再びカーンに尋ねる。応じる声は変わりない。


「子供趣味? ええ……流石にちょっと引く」


 ちょっとどころかドン引きだ。そう言わんばかりに顔を歪めて、リオは首を振った。


「あ、そうか。僕の体調を悪くして、奥で休んでいる間にカーンと商売しようとしていたのか。そっか、そっか。それなら納得」


 うんうんと頷き、半ば無理矢理に納得を決め込む少年。その前に立つカーンは、苦い笑みを浮かべた。


 たとえそれが誤りであったとしても、リオが納得しているならば手出しはせずにおくのが吉だ。淫魔の目論みを胸の中に収め、カーンはちらりと背後を見遣った。


「ところで、リオ様。小娘の様子は――」


一頻ひとしきり喋ったら寝ちゃった。疲れてたみたい」


「あれだけ暴れていれば……そうでしょうね」


 部屋に据えられたもう一つの寝台では、濃茶色の獣人が丸くなっていた。


 掛け布団にもぐる暇なく夢の世界へ旅立ってしまったのだろうか、小さな身体にはリオの外套が掛けられていた。


「彼女は何と?」


「他愛ない話しかしなかったよ。ここまでどうやって来たのかとか、檻の中は最悪だったとか」


 人間界に住む獣人。リオもカーンも、それと接するのは初めてだった。遠巻きに見掛けたことはあっても会話まで持ち込むことはできず、二人揃ってあれは何かと想像を巡らせたものだった。


 数十年振りに果たされた悲願に満足気なリオは、ところで、と男を見上げる。


「匂い凄いよ。お風呂行って来たら?」


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