2 ベッテンカーナ居住区にて
結局、俺たちは一杯ずつ飲んだだけで、早々に『レオポルド・フォルド』を
『ばか! 絞って入れるんだよ!』
リズミーの覇気のある声を三日ぶりに聞いた。悪戦苦闘だったが、最低限の仕事はできた。
「ありがとう」
森の木々の隙間からベッテンカーナの街明かりが顔を覗かせた頃、リズミーが唐突に言った。
俺は密かに胸を撫で下ろした。
カードタワーのくだりは悲惨だった。
レスポンスがなく、ただ毒沼を流し込んだようなどろっとした時間が流れるばかりだった。その時の印象を拭い切れずにいたけれど、それさえも今、脳裏から取り払われたのだ。
「こちらこそ。楽しかったよ。今度は一緒に行こう」
「エポト・エールも飲めないくせに」
……訂正する。
結局、リズミーは一杯だけ、俺は半分以上を残し、早々に『レオポルド・フォルド』を
(中略)
ようやく心が落ち着いたところだったが、ベッテンカーナに足を踏み入れた瞬間、
「パトルシアン、あれ──」
リズミーの指差す方向に視線を向ける。
二人組の男が居住区へと続く橋の上を全力疾走している様子が、街灯の薄明かりにもやっと見えた。
この時間だ──。
「なにかあったのか」
尋ねるでもなく呟くと、リズミーは「行こう!」と駆け出した。
やや面食らいながら並走する。
こういった状況下におけるリズミーの瞬発力は別人のそれのようだ。他人のピンチに、いち早く反応し、行動する。
もちろん、
「……煙?」
「うん、火事だよ」
そしてこの視力。今のは、既に気付いていた、といった口ぶりだ。闇夜に漂う煙を、居住区すら見えていない位置からどうやって視認したのか、俺にはわからない。
もしかすると嗅覚のほうかもしれない。ここでいう嗅覚は文字通り、鼻が
要するに、彼女は人並み外れた視力、嗅覚のその
遠方から敵を狙撃する魔銃士になるために生まれてきたような能力の持ち主だが、こと戦闘に関しては及び腰なのが玉に
この瞬発力が加われば、もっと上に行けるだろうに。
何度目か知れない思考にはまりつつ、リズミーの横顔をちらと見た。長く垂れた
嫌な予感がする。
リズミーはどうかしらないが、俺は火事の現場に向かって走っているつもりはなかった。なのに、どんどん煙に近付いていってしまう。
あのさ、と呼びかけようとした、その時だった。
「攻撃を受けている!
男の怒号が鼓膜を通り越して心臓を振動させた。
声は正面、
当たらなくていい予感はよく当たる。
そして俺たちは到着した。到着してしまった。とても夜とは思えない明るさ、
──炎に包まれ、
敷地を囲う壁にくっつくようにして、炭で全身真っ黒に染まった魔術士、
更にその周りには、戦闘態勢の
なんてことだ……。
地獄絵図だった。よく知っている場所だけに、
「リズミー」
はっと我に返り、リズミーの姿を探す。
リズミーはギルドハウスの敷地の入り口で立ち往生していた。どうしたらいいかわからない様子できょろきょろと辺りを見回している。
地面をおもいきり蹴って飛ぶように駆け寄った。
「リズミー、こっちだ」
今度は俺が指差す番だった。ギルドハウスにほど近い噴水広場を示す。
「えっ」
「交戦中だ。移動するよ」
動揺しているリズミーの手を引き、噴水広場まで駆けていく。「立派だ」と居住区に暮らす人々から評判の噴水装置の中に、走ってきた勢いそのままに飛び込む。派手に水が
リズミーの頭を押し込んでその場に伏せさせる。その力加減に集中する。優しく、速く。
改めて隣に並ぶと、リズミーが震えているのがわかる。水は冷たいが、そうじゃない。どうしよう、どうしよう、と追い詰められるといつもこうなのだ。
左手で水をさっとすくう。手から逃げるように勢いよくこぼれた。
「湯加減がいまいちだね」
「そうだね」
中身が空っぽの言葉が返ってきた。カードタワーの
「ドラゴンに炎をお願いしよう。探してくれないか」
「ドラゴン?」
「さっきから見てるんだけど周辺に敵がいる様子はない。ギルドハウスを燃やしたのはおそらくドラゴンだ。上空から炎を吐いた。──いないか?」
地上の混乱とは裏腹に静寂を帯びた夜空。立ち上る煙の向こう側にドラゴンの影を探す。
リズミーなら、と思ったが、返答がない。──逃げたか?
「山のほう……」
リズミーが消え入りそうな声で呟いた。
「なんだって?」
「魔術士が……」
「そんな」
ばかな。
俺は影絵を切り取ったような黒い山を
ベッテンカーナの東に居住区があり、更にその東に山がある。マハチェット山脈の一角だ。ここから馬に乗ったとしても、吟遊詩人が一曲歌い終えるまでに着くのは不可能だろう。あの位置から魔術士が炎魔法『デクタファイア』を放ったというのか……? 標的に当てるにしても、威力を保つにしても、遠すぎる。
更に驚くべきことを、リズミーは口にした。
「
リズミーの視線は未だ山に向けられている。
──
リズミーが言うのだからそうなのだろう。俺はもう一度、今度はより重みを加えて、心の中で言った。
なんてことだ……。
きな臭いとはこのことだ。
「まだそこにいる?」
「ううん」
リズミーは一度だけ首を左右に振った。とりあえず、追撃はない。
「ギルドハウスに戻って逃げ遅れた者がいないか確認しよう。折りよく
「そうだね」
小さいながらも力のこもった声だった。
夜が明けた。
天に悪魔でもいるんじゃないかと思うほど澄み切った晴天。崩壊したギルドハウスとの対比は残酷だ。
やむを得なかった。もう水でどうにかなる火ではなかった。居住区全体に燃え広がるのを阻止すべく、魔術士たちが
火は消し止められ、ギルドハウスはその原型を完全に失った。
中からギルドメンバー五名の遺体が運び出された。一番隊のコープスも逃げ遅れたらしかった。
「剣術士のあいつの一番の得意技は、寝ることだったからな」
同じ一番隊の者が力なく笑うのを見て、俺はその場を後にした。
エデンツァが到着するまでの間、敷地の外側で待機しようと思った。彼のことを見ていられない。
リズミーは宿で休んでいる。
ぎしっ、と歯を噛みしめた。
「パトルシアン! うまくいったぞ!」
ホルムベルトが
「ディディとバニラッテもじきに来る……はずだ」
リンクストーンは遠く離れた仲間との交信手段に使われる。交信手段とはいっても、二度ほど光と音を発するだけのシンプルなものだが、リンクストーンの画期的なところは魔力を必要とせず、誰もが使用できるところだ。所有者と石が紐付けされており、石を握りながら相手を思い浮かべることで相手の石が光り、鳴る。ただ少しコツがいる上に、使用機会があまりない六番隊のメンバーは苦手としており、一度に二人のリンクストーンを鳴らすことに成功したホルムベルトは嬉しそうだ。
語尾の歯切れが悪いのはおそらく交信とは関係ない。待機時にリンクストーンが鳴ればギルドハウスに行くのが普通。しかし、六番隊には〝普通〟とは縁遠いメンバーが一人いるのだ。
「バニラッテか」
疑問形ではなく、諦めたように呟いた。
「せめてベッテンカーナにいりゃあ、騒ぎを聞きつけてやってくると思うんだが、街で大人しくしてる玉じゃねえからな、あの秘術士」
ユニコーンを召喚できる秘術士は、我々より世界が少し狭く見えているのかもしれない。馬を借りる必要がなく、手軽に遠くへ行ける。無邪気を具現化したような存在のバニラッテとユニコーンの相性は大陸随一だろう。
ああ、それと、とホルムベルトは声のトーンを落とした。
「リズミーの石は鳴らしてねえからな」
「すまない」
「なにがだ?」
「六番隊は揃わない。こんな時でさえ。これでまた、なにを言われるか」
「どっちみち、バニラッテも来ねえよ!」
がっはっは、とホルムベルトは笑った。
「既に知っている者も多いと思うが、昨晩ギルドハウスが奇襲を受けた。──ご覧の有様だ。我々はギルドハウスと、そして五名のギルドメンバーを失った。無念だ」
エデンツァは
絵になる女性だな、と思う。確か俺たちより十上の二十九歳だったと思うが、もっと上に見える。老けている、という意味ではなく、圧倒的な存在感により大きく見えるのだ。エデンツァ以上の
「敵の詳細はわかっていない。姿を
ううむ、と近くにいた武闘士が
「……ということに、表向きはなっている。だが、私にそのような考えはない。必ずや我々の手で下劣な卑怯者を討ち取り、報復を成し遂げるのだ!」
何人かのギルドメンバーが
「それからギルドハウスだが、建て直しにはしばらく時間を要する。ギルドハウスで寝泊まりしていた者は、すまないが、宿を借りてくれ。有事の際は、そこの噴水広場を借りるとしよう。しばらくの辛抱だ」
エデンツァが木片から降りる。
「以上だ」
今初めてなにが起こったか知った者もいたのか、
聞いた、と俺は思う。
エデンツァは〝下劣な卑怯者〟と言った。
つくづく、恐ろしい人だ。
敵の姿を見たのはリズミーだけ。そのリズミーはここにおらず、そして俺はエデンツァに報告していない。
『パトルシアン、お願いがあるんだけど』
夜明け前、宿の手前の広場までリズミーを送り届け、それじゃあ、と
『エデンツァには報告しないで』
『……どうして?』
『汚名返上の場面はやってくる。必ずきっと絶対に』
一語一句
えっ、というリアクションを待たずに、リズミーは続けた。
『それが来たんだよ』
『リズミー、なに言ってるんだ?』
『私だけで敵を、捕まえる』
『五人死んでるんだ。私用で動いていい案件じゃない。それに、敵は只者じゃない』
『六番隊はこれからますます〝落ちこぼれ組〟って言われるんだよ!』
叫ぶように言って、リズミーは膝を折った。巻き付くようにして顔を押さえている右腕から、うう……と
俺はその場に
『いいかい、リズミー。そんなことは大した問題じゃないんだ。重要なのは、これ以上誰も死なないことだ』
『嫌なんだ! パトルシアンもホルムベルトもディディもバニラッテも、みんなすごいのに誰もわかってない。不名誉なレッテルが一人歩きして、努力がなかったことになってる。そんなの耐えられない!』
『ホルムベルトもディディもバニラッテも、誰もリズミーに単独敵を追ってほしいなんて思わないよ。もちろん、俺も』
『迷惑……?』
『勝手な行動は迷惑だ。俺たちは隊なんだから』
『……わかった』
怒るでもなく、悲しむでもなく、感情を押し殺すようにそう言うと、リズミーは早足に宿に入っていった。
静寂が耳に痛かった。
夜の
「おい、ホルムベルト、パトルシアン」
杖を肩に引っ掛けたディディが乱暴に名前を呼びながら近付いてきた。杖をそんな風に邪険に扱う聖術士を、俺はディディ以外に知らない。
聖術士は回復魔法のエキスパート。裏を返せば、血気盛んな者には向かない。ところが、どうだ。ディディはいつだって喧嘩腰だ。
「なんだ?」
ホルムベルトが慣れた様子で応対する。
「ホルムベルト、お前、昨日ギルドハウスにいたのか?」
「ああ、いたぞ。夜食の山羊肉ステーキを食べようとしたところに、どかん、だ」
「一発か?」
「いや、二発だ。脱出と同時に二発目があった。あと一歩出遅れていたらやばかったな」
「どこからだ? 西か東か、南か北か」
「さあな。そんなのわかんねえよ。逃げるのに必死だったんだ」
「んだよ! だらしねえな!」
「ギルドハウスで寝てるメンバーだけでドラゴンの逆襲に対抗できるわけないだろうが」
ドラゴンの逆襲──。
二年前、
偉業だった。
折に触れ、小競り合いを繰り返してきた隣国、ハルカナブルカは以来、対話による外交を重んじるようになり、
この年、
あの時の報復をドラゴンが決行したと考えると、
だが、違う。
ドラゴンじゃない。
俺は東の山に目を凝らした。
あそこからドラゴンの炎と間違えるほどの『デクタファイア』を連続で当てることのできる、もっと〝巨大〟な敵だ。
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