第29話 『ミゼレーレ』 アレグリ
『私を憐れみください、神よ』
信仰や宗教に関わらず、こうした気持ちを全く持たない人も、もしかしたらこの世にはいらっしゃるものかもしれませんが、人間、誰にも怨まれず嫌われず、全ての人から支持され愛され、無傷で生き続けることは、非常に難しいことでありましょう。
実際のところ、人知れずただ一人でこうした祈りを捧げた独裁者さんもいたかもしれないですが、そこを人に見せるか、まったく見せないのかは、個人の自由かもしれないし、そんなこと考えたこともない方も、いらっしゃるのかもしれないです。(自分が絶対正義だと確信している場合は、ないかもしれないですなあ。)
それでも、この意味合いは、多くの人の心を捉えてきたことだけは事実のようでありまして、音楽においても、『レクイエム』はもちろん、多くの名作が書かれてきたとお伺いするところであります。
まあ、ここでは、宗教的、学問的なことがらを追及するつもりも能力もありません。
この作品は、1638年に作曲され、長年ヴァチカンのシスティ-ナ礼拝堂の門外不出曲でありました。
もし、持ち出したりしたら、破門とされることになっていたそうであります。
それだけ、すごい音楽なんだろうなあ、と、誰もが想像します。
そこで、有名なモーツアルト先生の伝説が登場いたします。
1770年の4月に、モー先生はこの音楽を聴きます。
で、一回聴いただけで、宿に帰ってから、全曲楽譜に書きとってしまった。
というお話であります。
しかし、実際のところは、必ずしもそうでもなさそうで、モー先生が滞在していた間にも3回演奏されたことが分かっており、一回聞いたあと、楽譜に書き留め、再び聞いて修正したとも言われ、また門外不出とはいえ、まったく外で知られていなかったわけでもない可能性もあるようなお話もあり・・・で、やましん最終的な事はわかりません。(『モーツアルト百科全書』毎日新聞社 2006年 福島章恭さま著 参照。)
そうは言っても、事前に知っていたとかのトリックではなくて、本当に2回か3回で、この曲をすべて書きとったのだとすれば、それでも、大変なことには違いないです。
その後、ヴァチカンさまは、モー先生を破門にするのではなくて、賞賛する方向に動き、やがて門外不出は意味がなくなり、解かれることになったようであります。
この曲の演奏は、現在たいへんストレートに歌われている録音もありますが、作曲当時はかなり自由に即興的な装飾が施されていたらしくて、その方向を再現した録音もございます。
なにかと職場でも偉い人に反抗ばかりしてきた(まあ、必要な時もあったとは思うこともないこともないですが・・・)、罪深いやましんも、クリスチャンじゃないけど、これを聞くときは、神妙に聞くことにしております。はい。
長い年月、事実として、多くの人の心をつかんできた音楽です。
美しくないわけがない、訳であります。
ただし、こうした音楽は、確かにある程度(かなり)環境というものに左右される側面はあるでしょう。
やましんの、万年床で、かなりつかれたお部屋で聴くのと、システィ-ナ礼拝堂で聴くのとは、それはもう、天と地下ほどの違いがありましょう。
とはいえ、そこは、人間というものは、限られた空間でしか、普通は生活できないものです。
どんなに、移動の自由が認められていても、経済的な、あるいは、健康問題とかで、動けない場合もあるわけです。
それは、ある程度、空想力と妄想で補う必要性があるわけですね。
けっして、悪い事ではないと思います。
なお、この音楽、歌うのは、恐ろしく難しいと思います。
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