第11話 『冬の旅』 シューベルト 

 出てしまいました。


 『うつうつ』で、あれほど危険だから近づかない方が良いと言いながら、なんでここで出してくるのか?


 なぜ、今なのか?


 アメリカの某ニュース番組の宣伝を見ていると、キャスターの方が、さかんにそう言っています。


 なぜ、今なのか?


 ネタが切れたから・・・・では、たぶん、ありません。


 じゃあ、なぜ、今なのか?


 ぼくがこの危険な歌曲集を、対訳と首っ引きでさかんに聞いたのは、20歳代のことです。


 しかし、その後は、ほとんど近寄らなくなったのです。


 もちろん、まずは、危険だからです。


 マー先生の『大地の歌』と並ぶ、クラシック音楽中、『危険度No.1』の座を分け合う音楽です。


 しかし、終結部に、まだなんとなく救いようがある『大地の歌』に対して、こちらは最後の最後まで、まったく救いの道がありません。


 前半の途中で、あの『菩提樹』があり(第5曲)、そこだけが、唯一の救いの場ですが、ほかにはまったくといってよいくらいに、明るい光が見当たりません。


 もしも、最初に長調の旋律が来ても、後半には沈み込んでしまうのです。(たとえば、中間地点第11曲の『春の夢』、第13曲『郵便馬車』)


 実際に、前半12曲が出来て、シューベ先生が、まずお友達に歌って聞かせた際には、(シューベ先生はテナーだったとか、これ重要。)さすがの仲間たちも当惑していたと言います。


 でも、シューベ先生には、どうやら自信があったようなのです。


 『自信』と言うか『確信』というか、そこは本人でないと、わからないものでしょうけれど。


 実際、確かに、西洋音楽の歴史上、『最高の芸術歌曲集』として、たたえられることに、なりました。


 シューベ先生の、確信通りだったわけです。


 それにしても、この暗さの原因は、そもそも歌詞にあるんだろう。


 そうですよね。


 ミュラー様の書いた詩が、(もしかしたら片思いに近いような)釣り合わない恋をしてしまった青年の悲劇なのですからね。


   *****


 当時は、産業革命の進行時代でしたが、イギリス・フランス・ベルギー・スイス・オランダという先進諸国に対して、ドイツあたりは後進国でした。


 ドイツは、自律的な産業革命が出来なかったのです。


 イギリスは技術の流出を恐れて、1825年までは熟練工の海外移住を禁止していたし、1842年までは機械の輸出も禁止していました。


 そこで、当時のプロイセンなども、国家主導の、強力な産業革命政策を実施しなければならなかったのですが、このあたりは明治維新後の日本と似たところがあります。


 こうしたのを、のちになって、上からの産業革命とか言いました。


(ちなみに、産業革命は、「断絶なのか」「連続なのか」という議論が、日本でもかつて華々しく展開されました。最近どうなってるのか、知りませんけれども。)


 鉄道の建設は、ドイツでもやはり、産業革命の牽引車だったようですが、ドイツは目の前にイギリス、お隣にフランスがいて、イギリスは木綿など繊維産業にも圧倒的な力があったので、かなり不利な立場でした。


 ザクセン(1815年に北半分はプロイセンに割譲)は、比較的早くから繊維産業を立ち上げていましたが、プロイセンはちょっと遅れてしまいました。


 一方炭鉱は、プロイセンでも重要で、ザールの炭鉱はそこで、1815年からプロイセンの領有となり、1848年~1852年には、国有の鉄道が開設されたのです・・・。


 ハプスブルクの帝都ウイーンでも、19世紀半ばには産業革命の波の中に入って、20世紀初めにかけて、農村からの人口の大流入が起こりました。


 やましんの頭では、このあたりのヨーロッパのややこしい版図の状況は、ほぼ解読不能ですけれども。


 まあ、シューベ先生の頃は、その少し前かと。


 ・・・なんて言う断片のお話は、大昔のやましんが使っていた教科書からなどの盗みとりですけれども。(講座 西洋経済史 産業革命の時代 昭和54年 同文館)


 *****


 まあ、とにかく、そこに、そうした『深淵』を描き出すことにかけては、無類の天才が曲を付けてしまった。わけです。


 しかも、シューベ先生は、あまり体調がよくなくて、『死』を意識せざるを得ない状況でも、ありました。


 ついでに言えば、シューベ先生は『音楽家』でしたが、他に決まった定職は、なかったんじゃないかな、と。


 独立した『作曲家』と言う職業が定着するのは、もう少し後のことでしょう。


 まあ、どこか、時代の移り目でほんろうされる主人公に、通じる感慨もあったのではないか。


 で、こうなった。


 で、やましんは、20歳代に自分が勝手に引き起こした失恋にかこつけて、この曲のレコードばかり、買い漁って、聞き漁った、という次第です。


 それにしても、たしか、どなたが言ったんだったか・・・ヘフリガーさんだったか、シュライアーさんだったか、ちょっとそこらあたりが、どうも思い出せませんが・・・『水車屋の乙女』の青年が、その後『冬の旅』に出たんだと考えて、で、そのあと、いったい、この青年はどうなったのでしょうか?


 彼は、最終第24曲『辻音楽師』で、ぽつんと言います。


『 Wunderlicher Alter, Soll ich mit dir gehn ? 』


~ おかしな老人さん、ぼくはあなたといっしょに行くのだろうか? ~


さて、ここで問題です!


この青年は、その後どうなったのでしょうか?


1 詩人になったが、コリもせず、別の恋をして、またフラれて、それで、シューマン先生に『詩人の恋』を書かれた。(詩はハイネさん)


2 中国にわたって、やがて『大地の歌』の主人公になった。


3 工場に働きに出て、体調を壊して退職し、50歳か60歳くらいでたぶん、他界した。


4 一念発起してがんばり、経営者として出世した。


5 この世をはかなんで、自害した。


6 宇宙人と出会って、遠い宇宙に旅立った。


7 田舎に帰った。



 まあ、いずれにせよ、フィクションの中のお話ですから、考えるのは自由でしょうけれども。


 どれが、正しそう、でしょうか?


 まあ、そうでも考えないと、まともにこの曲集を聞いたら、2~3日は苦しみそうです。


 名歌手、フィッシャー=ディースカウさんは、この曲集を何度も何度も録音し、それぞれが、常に,当代随一と謳われたものです。(やや芝居がかり過ぎるとして、あまり気に入らない方もありましたが。そうした方は、ハンス・ホッターさんの方が、お好きだったかもしれません。)


 一方、対抗馬、ヘルマン・プライさんが、まだ若いピアニスト(当時)、ビアンコーニさんと組んだ録音では、より甘い声で、なんとなく優しく始まりながらも、後半に行くとだんだん凄みを増すと言う感じで、これもまたすごい歌手さんでした。

 

 エルンスト・ヘフリガーさんは、テナーですが、本来シューベ先生が、自分の声に合わせてこの歌曲集を作ったと考えた場合は、その録音は貴重です。


 また、日本人には、ゲルハルト・ヒュッシュさんの録音が忘れられないものでしょう。


 この方は、フィンランドの作曲家、キルピネンさまの歌曲を日本に紹介したことでも重要です。


 キルピネンさんは、昔の日本でのほうが、今よりもずっと有名だったような気がします。


 さて、怪談は、怖い事が重要です。


 意外と、暗い(見る人によっては明るい?)社会的な背景も、隠されていそうなこの歌曲集ですが、聞く際は、あまり感情移入しすぎないように、ぜひ、注意して、お聞きください。


 でも、24曲、全部、良い、すごい、お歌ばかりです。


 先ほどのお話ですが、人生の残りが少なくなったら、この歌曲集を聴き直す。


 いまは、そう言う気分なのであります。


 最後の少し前に、また聞き直す。


 という感じです。


 ただ、今が最後の少し前である可能性も、まあ、無い事はないですよね。



 



 









 

 







 


 

















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