第9話 『私はこの世に忘れられ』 マーラー

 マー先生の、異常に逆説的な傑作です。

 

 とはいえ、詩を書いたのは、マー先生ではないわけです。

 『リュッケルトの詩による5つの歌曲』の中のひとつ、なわけです。

 なので、マー先生が、ご自分の境遇を歌ったわけではないわけです。


 それにしても、あまりに感動的で、とても『お仕事として書きましたからね。ははは!』

 という領域では、どうみても、ありません。(まあ、そうなんでしょうけども。)


 なぜ、このような、とてつもない、悟りきった、最終的な真実に達した音楽が書けたのか?


 まあ、そこが、マー先生だから。

 ということに、なるのでしょう。


 シューベルトさまが、異常なくらいに『さすらい』の音楽に長けていたように、こうした『世捨て人音楽』『終末音楽』には、マー先生はこれまた、異常に強いのです。

 その最終結論は『大地の歌』だったわけですが、この6~7分の小品は、巨大な『大地の歌』にも匹敵するくらいのインパクトがあります。


 交響曲第8番は『千人の交響曲』といわれ、なんとなく祝祭的で巨大な方向に目が行きそうですが、あの第2部のテキストは、ゲーテさまの『ファウスト』の最終場面で、ファウストさま自体が、もともと、もう世の中に嫌気がさした、いわば『世捨て人』が、悪魔の力で蘇った『もの』、です。


 そうして、『ファウスト』の終末は、人類最高の天才、ゲーテ先生が、その終生をかけて書いたお話の、最終結論です。先生の死は、もうその目の前にあったのです。

 つまり、まさに『いざ、昇天すらむ!』(あれ、違うかな)としている瞬間の表現なのです。


 だから、『第8交響曲』は、『祝祭』というよりは、『終末音楽』なのです。

 マー先生が、その続きとして書いた、異常な緊張感に満ちた『第9番』や、未完成になった、悲痛な『第10番』交響曲の前が、なんで『巨大で祝典的』な『第8交響曲』なのか、なんで正反対の『大地の歌』なのか、は、そうして考えてみると、何か、別々の断絶じゃなくて、きちんと、つなっがっているように、やましんには思えます。


 つまり、すべてが『死』という現象に目が向いて、並んでいるわけですね。


 ですが、なんとなく、表現が大変良くないのですが、どこか、まだあきらめの悪い、こうした『交響曲』さまに対して、この静かで絶対的ともいえそうな『諦観』に満ちた音楽は、いったいなんなのでしょうか?


 この歌曲集が、まとめて出版されたのは、1899年だそうであります。

 『第8番』は、1906年作曲。

 『大地の歌』と『第9番』は、1908年~9年にかけて。

 未完成の『第10番』は、1910年。

 マー先生は、1911年に、ご病気で亡くなりました。

 

 とすると、この歌曲がこれらの中では最初になります。

 マー先生自身にとって、『死』はいつも音楽の課題だったけれども、まだ身近なモノではなかったんだろうかなあ。

 そんな、勝手な事も、とりあえず、思います。


 『Ich bin der Welt abhanden gekommen~~~』


 ”ぼくは、この世から 消えましたあ~~~

 もう長い間、世の中は、ぼくの噂は、聞いていません~~

 きっともう、死んだと思っているのでしょうね”


 《たくさん省略》

 

 『Ich leb' allein in meinem Himmel,

In meinem Lieben , in meinem Lied.』


 ”ぼくは、一人で生きてる、

 ぼくのお空に、ぼくの愛に、ぼくのお歌に”


 しかし、やましんだって、一人で生きてると言っても、健康保険もかけなきゃならないし、年金も欲しいし、病院にも行かなきゃならないし、食費も、光熱費も税金も、町内会費も払わないといけないし。


 欲しいモノだって、まだあるし。


 書きかけのものは、どんなに最悪の駄作と言われても、でもやはり、なんとか完成はさせたいし。


 それには、まだ、どうしても、時間が必要です。

 客観的に見て、あまり残りが、もうありません。

 なのに、このところ、停止状態です~。


 だから、どうしたって、こう悟っているわけにも行きますまいだろうに・・・。

 マー先生だって、きっと実際は、そうだったでのしょう。

 これが、夢でいられるうちが、まだ幸福なのです。

 ただ、先生は天才で、すでに権威でしたけど。 


 それにしても、このお歌は魅力的です。


 でも、これを完全に生活で実現するには、結局はいくらかの財力が必要なのですね~。


 まあ、どこかの大統領さんが言うような通りですけど。


 「カネだよ。カネに、なるだろう。」


 品はないですけどね。

 これを、『経済的活力』、と言い換えてもいいです。

 表現ひとつで、随分印象が変わるのです。


 まあ、それか、最後を覚悟するか、です。

 やましん、多少は瀬戸際に近くなっては、いますです。はい。


 まあ、ただ、世界中が良く後ろを見ないまま、なんとなく、バックオーライしているような気がするのは、これも多少は、気にはなりますなあ。(それでも、多少後ろ向きに前に行き始めたのかなあ?なんか怪しいけども)


 ぼくの、やや壊れた体や精神に、あまり良くないし、うるさいし、テレビなどは極力見ないようにしてはいますし、点いていても、音は消しておりますが、それでもネットでニュースは入ってきますし、病院に行けば、まるで幽霊のように、勝手に見えてしまいます。

 便利な世の中です。

 

 でも、もしかしたら、誰かがちょっとだけバスから降りて、今はいなくなった車掌さん役を買って出て、後ろをよく見ながら、みんなが、がっちゃんこしないように、見てた方が、良くはないかなあ・・・


 心ならずも、世の中を離脱したとはいえ、ちょっとだけ、まだ心配です。

 このお歌のように、すっきりと悟りたいですけども。

 

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 しかし、もう死んだようにお家に閉じこもっていても、毎晩悪夢にうなされ、この世の恨みつらみから解放されないでいて、死を憧れつつも、実は恐れおののいてばかりいる、このやましんは、自分が哀れで仕方がないですが、それでも時間は容赦なく過ぎ去るのです。

 宇宙の最後まで、それは変わりません。

 かといって、世の中が強引におかしくなるのは、いやですけども。 


 


 

 




  

 






 

 

 






 



 




 

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