第七十三話 トカゲの少女と時計仕掛けの神

 リザードマンの少女ヤルハは、ゆっくりと目を覚ました。

 視界に映る見知らぬ天井に戸惑いつつも、冷静に部屋の観測をする。

 太い梁からぶら下がる貯光石のランタンと、大きな三角屋根からここがどこかの一軒家だと知る。

 しかしランタンの貯光石が取り外されているところを見ると、光を蓄えるために天日干しをしているのだろう。

 そうなると、今の時間帯は日中ということになる。

 ヤルハはそんな事を考えながら顔を上げて足元の方を見ると、ようやく窓の存在に気がついた。

 窓板の隙間からはまばゆい程の光が差し込んでいて、その光の強さと角度から今はだいたい正午近くだと推測する。

 

 ある程度の時刻がわかったからだろうか、ヤルハは自分のお腹が減っていることに気がついてむくりと起き上がった。

 そこで初めて、今まで自分が寝ていたのがベッドだったと気付いた。

 いつも寝ている地下道の湿った藁の寝床とは大違いの柔らかさが嬉しくて、ヤルハは両手とお尻で何度もその柔らかさを堪能した。


 そしてベッドの上で弾みながら部屋の中を見回してみた。

 部屋の中にあるのは、ベッドと洋服ダンスと少し風変わりな机だけだ。その机は全体的に綺麗な装飾が施されていて、小振りな天板の上には僅かだが化粧品道具が並べられていた。


「うわあ!」


 と、思わずヤルハの口から感嘆の声がこぼれた。

 恐らくそれは化粧机と呼ばれるものに間違いなかった。

 いつだったか地上へ食料を漁りに来た時に、通りの店のショーウインドウで少しだけ見かけたことはあったが、本物をこんなに間近でじっくりと見たのは初めてだった。

 そしてヤルハはまるで引き寄せられるように、その化粧机の前に立ってみると、天板の奥に半円状の板が出っ張っていて、その前面が観音開きの扉になっていることに気がついた。


 十歳のヤルハの背丈ではその扉に届かなかったが、椅子を引っ張り出してその上に跨ると何とか扉に手が届いた。

 そして扉を開けて息を呑んだ。

 目の前にキラキラと輝く世界が広がったからだ。

 それは三面鏡というものだったが、ヤルハは鏡を見たことはあっても、三面鏡を見たのは初めてで存在すらもしらなかったので、その不思議な美しさに一瞬にして心を奪われていた。

 

 ヤルハは鏡に写った自分の顔とにらめっこをする。

 笑顔、怒り顔、しかめっ面、泣き顔――

 自分の顔がこんなにも多彩な表情が出来ることが新鮮な驚きとなって、その小さな胸をくすぐった。

 ヤルハは三面鏡の前で、キャッキャッキャッキャッと無邪気に笑い転げては百面相を繰り広げた。

 そしてふと自分の頭の上にリボンが無いことに気がついた。

 幼いトカゲの少女は血相を変えて部屋の中を見渡して、ベッドの柱に掛けられているリボンを見つけるとホッと胸を撫で下ろした。


「お母さんのリボン……! お母さんが最後に買ってくれた大切なリボン……!」


 ヤルハはリボンを取ってくると、三面鏡の前で鼻歌を口ずさみながら嬉しそうにリボンを結ぶ。

 その後で何かを思いついたらしく、二つの扉を少しだけ閉めて、その僅かな隙間に自分の頭を突っ込んだ。

 三枚の合わせ鏡が織り成す幾重にも重なった世界と、そこに映りこんでいる自分とリボンがたまらなく可笑しくて、ヤルハは鏡の世界で笑い転げた。

 

 そしてヤルハは無限に幾重にも重なった世界のどこかに、死んだお母さんが居るような気がしてきて、必死に鏡の中を覗き込んだ。

 右へ左へと角度を変えてみては、鏡の世界を探索してみる。

 すると、鏡の中に居る自分の背後に、いつの間にか見知らぬヒトが立っていることに気がついて、ヤルハは短い悲鳴と共に椅子から転げ落ちた。


「ぶ、ぶたないでください! 痛いのは怖いのですっ……!」


 ヤルハはドレッサーの下に潜り込むと、体を丸めて哀願した。


「僕のことを覚えていませんか……? もう傷は治りましたか……?」


「え……?」


 ヤルハはその優しい声音に、恐る恐る顔を上げて男の顔を確認した。

 そこに立っていたのは、肩まで伸びた白髪のロングヘアをした優男風のヒト族の青年だ。

 奇妙な白色の瞳には、ほかのヒト族や亜人族のように、リザードマンを憐れんだり蔑んだりするような光は宿っていない。

 それどころか、受け入れてくれるような無防備な笑顔を浮かべていた。


 その優しく微笑みかけてくる顔を見ているうちに、ヤルハの脳裏に記憶が甦ってくる。

 路地裏でゴミ箱を漁っていると、ヒトと獣人の子供たちに見つかって咎められて、僅かな残飯を抱えて逃げたところを捕まって、容赦のない暴力を受けた。

 空腹と恐怖と絶望と激痛の中で、ただ死にたくないと一心に願っていたら、現れたのが一人のヒト族の青年だったような……


「あ、あなたはもしかしてヤルハを助けてくれましたか……? ヤルハはリザードマンなのにどうして……?」


 ヤルハは警戒心を解いて、恐る恐るドレッサーの下から這い出した。

 そこで初めて自分の体から痛みが消えていて、腕も足も普通に動いていることに気がついて目を丸くした。


「――ケ、ケガが治っているのです! もしかしてあなたが治してくれたのですか!?」


「そうですよ」


「ありがとうございます! 私みたいなリザードマンのために! なんとお礼を言えばいいのかわかりません」


 ヤルハからはすっかり警戒心が消え去って、子供らしく無邪気に青年に抱き着いた。

 思わず抱き着いてしまった後で、我に返って慌てて体を離したが、男は相変わらず笑みを浮かべたままだった。


「お礼なんていいですよ。それよりも君は丸一日半も寝ていたのでお腹が空いているでしょう。家の者に何か作らせましょう。僕の名はマキナです。君は?」


「私はヤルハです」


「じゃあヤルハ、食堂へ行きましょうか」


 ヤルハはそのままマキナに抱きかかえられると、部屋を出て階下へ連れて行かれた。

 そこは中流家庭のよくある民家だったが、生まれてからずっと地下道暮らしだったヤルハには豪邸のように見えて、目に映るすべてを興味津々のきらきらとした眼差しで見つめていた。


 そのヤルハの小さな体が、部屋の隅に何かを見つけてビクンと弾けた。

 食堂の片隅に、見知らぬウサミミの男女が立っていたからだ。

 しかも中年のその二人はマキナ達が食堂に入ってきても、無表情のまま壁際に突っ立っているだけでどこか不気味だった。


「大丈夫ですよ。彼らはここの住人ですが、僕が作り変えましたから、ヤルハを傷つけるようなことはしません。さあ、彼女のために何か温かい食べ物を――」


 その声を合図に無表情のまま台所へ歩いていくと、調理を始めるウサミミの夫婦。

 ヤルハはそんな二人をキツネにつままれたような顔で見ていると、マキナがそっと耳打ちをした。


「ヤルハには秘密を教えてあげましょう。実は僕はほかの世界からやって来たのです」


「もしかしてマキナさんは稀人マレビトなのですか……!? だからほかの人たちと違ってリザードマンのヤルハに優しいのですね!?」


「そうです。僕はね、ヤルハが眠っている間に、あの夫婦に聞いたり図書館へ行ったりして、この世界の成り立ちと歴史を調べました。君は言っていましたね。みんなと心の形は一緒だと。ヒトや亜人はみんな神族の生まれ変わりだから、その言い分は正しい。それなのにリザードマンだけは忌み嫌われて、地下へと押し込められている。みんなと心の形は同じ筈なのに……。そんなのおかしいですよね? そんなのは絶対に間違っています。誰かがその歪みを正さなければなりません。でも黄金聖竜様は、世界全体を守ることで忙しい。リザードマンという一部の種族のためだけに力を奮う時間がないのです。そこで違う世界に協力を求めたのです……」


「も、もしかしてマキナさんなのですか……?」


「ヤルハは今まで黄金聖竜様に願い事をしたことはありますか?」


「はい。何度も何度も。お母さんが死んだときも……」


「それで一度でもその願いが叶い、黄金聖竜様が手を差し伸べてくれたことがありましたか?」


 マキナのその問いに、無言で首を振るヤルハ。


「そうでしょう。でも黄金聖竜様もずっと心を痛めていたのですよ。それで僕の世界に協力を求めてきました。そして僕はやって来たのです。ヤルハの願いは、しっかりと僕に届いていましたよ。だから僕はヤルハとリザードマンの皆を助けるためだけに、この世界へとやって来たのです。黄金聖竜様の使いの者として。もう少し早く来ることが出来たなら、君のお母さんも助けることが出来たのですが、それだけは許してくださいね……」


 ヤルハの大きな瞳からは、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちていた。

 それを拭うこともせずに、ヤルハは両手を胸に当ててマキナを真っ直ぐに見上げた。


「お母さんがずっと言っていたのですよ……。みんな心の形は一緒だから、いつかわかりあえる日が来ると……。またリザードマンが地上で暮らせる日がやって来ると……。だから怒りで心の形を変えてしまっては駄目なんだと。ヤルハはその言葉を胸に、今日まで生きてきたのです……! お母さんは正しかったのです……! その事が一番嬉しいのです……!」


「食事を終えたら皆のところへ案内してくれますか? 僕がリザードマンの皆を助け出します。それはきっとより良い世界の第一歩になります……」


「お願いしますマキナ様! みんなを……リザードマンの私たちを救ってくださいなのですよ……!」


「ええ、わかっています。一緒にこの世界を作り替えましょう。その為に僕はこの世界に存在するのだから……」


 マキナは優しくヤルハの頭に手を乗せた。

 その横で大きなリボンが静かに揺れていた。

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