天使の囁き

 昨晩のうちに脱気しておいたマーマレードの瓶を、冷蔵庫に並べる。窓の外は仄かに白っぽく、薄明が眠りの世界をおぼろに照らしている。

 靴下越しに足裏を伝ってくる冷気に閉口しながら、床を軋ませないようそっと玄関に向かう。寝室の扉の隙間から、愁一しゅういちが寝返りを打つのが見えた。

 玄関に置いてあるはずの帽子が見当たらなかった。仕方なく愁一の帽子を取る。大柄な彼の帽子はサイズが合わず、すぐ左右にずれそうになるのを手で押さえて外に出た。

 風は凪いでいた。雪景色の中に横たわる湖には波ひとつなく、空との境界が微かに曙色に染まっている。群青の空に、オレンジの太陽がゆるゆると昇ってくる。

 小枝子がここに仮移住して、もう一週間が経った。今日こそは見られますように――しんとした世界の中、小枝子は息をひそめて待った。

「小枝ちゃん!」

 玄関のドアが慌ただしく開く音と同時に、大声で呼ばれた。静けさが一瞬にして霧散する。少々憤慨しながら振り向くと、寝癖のままの愁一が外に出てくるところだった。

「何」

「何、って。起きたら小枝ちゃんいないんだもん。焦ったあ」

「んな大袈裟な」

 気が抜けたようにふかふかの雪の上に座り込んだ愁一を、小枝子は呆れて見下ろした。

「だって小枝ちゃんいつも一人でどっか行っちゃうからあ……。今回の移住だって、そうでしょ」

「だからって帽子も被らずにこんな寒い中」

「小枝ちゃんが被ってっちゃったんだもん、俺の帽子……」

 黙って帽子を脱ごうとすると、ぴょんと立ち上がった愁一に頭をぎゅっと押さえつけられた。弾みで帽子がずれ、目の下まですっぽり覆われる。

「ちょっと、何すんの」

「それは、小枝ちゃんが被ってて」

「えぇ……」

 困惑する小枝子の視界の端に、ふときらめきが舞った。

「あ」

「えっ?」

「だ、ダイヤモンドダスト……」

 空気中の水蒸気が凍ってできた細かい結晶が、朝日の光を浴びてさらさらと降り注ぐ。

 天使の囁きとも呼ばれるその現象に魅せられて、小枝子はこの北の大地に仮移住を決めたのだ。息をするのも忘れて目の前の光の乱舞を見つめ――

「ねぇ、どこ? 見えないんだけど」

 小枝子は短く嘆息した。この喧しい婚約者は、2LDKの平屋に一人じゃ広すぎるでしょ、と強引についてきた。

「あっ、見えた! これ⁉」

 自力でダイヤモンドダストを発見したらしい愁一は、手を叩いてはしゃぎ始める。

「ほんとにもう、風情の欠片もないんだから」

「えぇ? 風情あるよ? 人もいないし」

「そういうことじゃあないんだなあ」

 小枝子はそう言いながら、目の前に広がる湖を眺めた。今は人っ子ひとりいないこの湖畔も、例年であればそろそろキャンプ客が訪れ始め、夏まで賑わう。

「あ、昨日小枝ちゃんが作ってたマドレーヌ、一緒に食べようよ」

「……私、マドレーヌなんか作ってませんけど」

「えっ……?」

「まさかとは思うけど……マーマレードのこと?」

「あ! それそれ」

 はあ、とため息を吐くと、愁一は何故か嬉しそうに笑った。

「俺、パン焼く係ねー」

 弾むように歩きながら家の中へ戻って行く。残された小枝子は、知らず知らず緩んでいた頬を両手でぎゅっと挟んだ。

 喧しくて、天使の囁きも何もあったものじゃない。けれど、こういうのもいいかな、と最近は思い始めている。



-------------------------

Twitter企画 #早起きにはマーマレード 参加作品

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

掌編小説詰め合わせ ささなみ @kochimichiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ