白い風鈴
一年生の夏、入学してから一度も大学の校舎に足を踏み入れることのないまま、退学届を出した。辞めたからって現状が良くなるわけでもないのに、このご時世に自分でもよくやるわと思う。初めて話す事務の人は、えっ? と一瞬困惑の声を漏らしただけで、止めるでもなく淡々と必要事項の説明を進めてくれた。
親に報告したらまあ当然その日から鬼電はやまないし、友だちの中には高卒で入った会社が倒産したり、学費が払えなくて退学した子だっているのにこんな話できないし。と思いながら時間を確認しようとスマホを見たら、また親からの着信が何件も入っていた。ひゃーっと息だけの悲鳴を上げて、スマホをジーンズのポケットにねじ込む。パン、と太ももを叩いて気合を入れ、残り数段残っていた階段を一気に駆け上がった。
「辞めて、しもた、もんは、しゃあ、ない、やんかっ!」
言い終わると同時に階段も終わった。ハァッ、と勢いよく息をつく。
山門をくぐって更に石段を上ると、数えきれないほどの風鈴がずらりと並んでいた。わぁ、と声に出さずに口だけ動かした。種類もさまざまで、折り鶴のついたものや短冊が丸やハートのもの、ガラスではなく鉄でできた風鈴もある。
ただタイミングが悪かったのか見事なほどの無風で、こんなに大量の風鈴があるにも関わらず、どれ一つとしてチリンとも音を立てない。まあ風ぐらいすぐ吹くだろうと、木陰に置かれたベンチに腰掛けた。色とりどりの風鈴は、見ているだけでも華やかな気持ちになる。
実家では毎年夏になると、すべての部屋の窓際に風鈴を吊るしていた。私の部屋には、私が小学校四年生ごろに家族旅行で絵付けした風鈴が吊るされていた。確か白い朝顔の絵と、波のような青い線の模様が描いてあった。昔は私が率先して吊るしていたけれど、いつの間にか興味もなくなってしまった。七月ごろになると知らない間にお母さんが吊るしていて、涼しくなるといつの間にかなくなっていた。
今年も私の部屋の窓辺には、あの風鈴が揺れているのだろうか。ふと懐かしく思い出すと同時に、ポケットの中のスマホの着信のことも思い出し、一気に気持ちが萎えた。
あーあ、と両手をベンチの上に投げ出した。そりゃ私だって、後悔がないと言えば嘘になる。高校時代は不登校とまではいかないまでもちょっぴり保健室登校気味で、先生たちや親には大学もちゃんと受験できるかどうか心配されていた。そんな状態で運よく入学できた大学を相談もなしに辞めたのだから、親が半狂乱になるのもまあわかる。今年また別の大学を受験するのか、大学中退でも就ける職を探すのか、その方向性すら決めかねていた。そもそも今年の受験だってどうなるんだろう。わからないことだらけで正直煮詰まってはいた。
とりあえず気分転換に外に出てみてもいいかな、できるだけ人のいなさそうなところ、と思って旅行系のキュレーションサイトを見ていたらこのお寺が隠れ映えスポットとして紹介されていて、私は風にきらきらとはためく風鈴にすっかり心奪われてしまったのだった。
平日の昼間ということもあってか、境内の目の届く範囲には私しかいなかった。混んでなくて良かった、とほっとする。何だかとても喉が渇いていた。リュックの中から取り出したペットボトルには、申し訳程度の水しか残っていなかった。坂を上る途中にあった自販機で追加の水を買ってくるんだった、と思ったが時すでに遅し。空になったペットボトルを握り潰し、帰りに買えばいいか、と気を取り直して立ち上がった。
すると、まるでそれが合図みたいに、ぶわ、と強い風が吹いた。風を待ちかねた風鈴が、一斉に涼やかな音を奏でる。
からからころころからからころころ__。
自然の中に響き渡るその音があまりに神秘的で、私は思わずうっとりと目を閉じた。顔を撫でる風が穏やかで、自然と微笑んでしまう。風鈴の音色が少しずつ控えめになっていくにつれ、私の心も穏やかに落ち着いていく。
「あの、すみません」
静謐な空気の中、小さく、しかし凛とした涼やかな声がした。え、私ですか? とびっくりして目を開ける。声のしたほうに目を向けると、黒髪ボブの女の子が立っていた。白いTシャツワンピに黒いサコッシュとコンフォートサンダル。私と同年代に見える。いかにも今どきの女子高生か女子大生、という雰囲気だ。
「はい?」
一人で浸っていたところに声をかけられた私は、恥ずかしさを隠すようにへらっと笑った。
からからころころからからころころ__。
風はおさまったように感じていたが、風鈴の音は再び勢いを取り戻していた。頭上の風鈴が織りなす光と影が、女の子の上にきらきらきらきらと降り注ぐ。
「ちょっと、あっちに行ってお話しませんか」
女の子はニッコリと微笑し、かわいらしく首を傾けた。絹のように細くサラサラとした髪が揺れる。
「あっち?」
「あっちです。ここよりもう少し奥」
私も合わせ鏡のように首を傾けた。この子も一人で来たのだろうか。
「奥にカフェとかある感じですか?」
女の子はぴょこんと石畳の上に踏み出し、振り返って私を手招いた。やっぱりカフェとかあるんだろうか。四月から一人の友だちも増えなかったけど、まさかのここに来て友だちが増えるかもしれない。私はそんな淡い期待に胸を躍らせ、彼女について行くことにした。
本堂の横の細い道を通って、お寺の奥へと進んでいく。もう少し奥、と言うからてっきりすぐ見える場所にあるのかと思いきや、お店や休憩所らしき建物は何も見えない。
「えー。辞めちゃったんですか。どこの大学だったんですか?」
「へぇ、実家は大阪なんですねー。どうして実家から通える大学にしなかったんですか?」
「風鈴、好きなんですか?」
会話は基本、私が女の子の質問に答える形で進んだ。話しながら、女の子はずんずんと先に歩いていく。戸惑いつつもついて行くが、道はどんどん狭くなり、本当に参拝客が使うのか疑わしいような荒れた様子を呈し始めた。
さすがに不安に思いながら、今何時だろう、とポケットのスマホを出して確認した。その瞬間、ざわり、と背筋が寒くなった。スマホのロック画面には、さきほど山門前の階段を上る前に確認したときと全く同じ時間が表示されていた。電話がかかって来すぎて、とうとう故障したのだろうか。一瞬そう思いなおしたが、さっきまでロック画面に何十件も溜まっていたはずの着信履歴が一件もなかった。
「あの、すみません」
前を行く女の子の背中に声を投げかけた。彼女は最初と比べるとかなりの早足になっていて、大きめの声を出さないといけないほどの距離が開いていた。
「あの、すみません、帰ります」
女の子が振り向いて、目が合った。おそらくカラコンであろう、色素の薄い人工的な目が私を真っすぐに捕らえた。
「どうして?」
女の子との距離は開いているはずなのに、彼女のモーヴカラーのマスカラが丁寧に塗られた睫毛の一本一本までが、鮮明に見えた。
「あ、ごめんなさい、用事を思い出して……」
「どこかに行くんですか?」
女の子の口調が、詰問するような調子に変わった。
「え? え、と……」
どうしてそんなに問い詰めてくるのか戸惑って、私は口籠ってしまった。
「どこに行く予定もないなら、もう少しいいでしょう?」
ベージュカラーの瞳が、間近で私を見つめていた。私はもう足が竦んで動けなかった。その瞳の、白目との境目にある細いフチを見返した。私の目は夏の日差しに晒されて強烈なドライアイが起こっているというのに、少女の目は潤み、白目は綺麗に透き通っていた。
「大丈夫ですよ、大丈夫__」
耳元で、鈴を転がすような声がした。
気が付けば、仰向けに横たわって白い天井を見上げていた。高校の保健室の天井と同じ、ジプトーンの天井だった。当時は虫がうじゃうじゃいるみたいなあの模様がどうしても苦手だったけれど、その天井を目にして始めに浮かんできたのは懐かしさだった。
「あ、目ぇ覚めた?」
「良かったー。大丈夫ですか? 吐き気とかあります?」
バタバタとせわしない足音がいくつも聞こえ、二人の看護師さんが代わる代わる私の顔を覗き込む。あ、ここ病院なんだ、とそこで初めて気づいた。私いつ倒れたんだろう。
看護師さんが呼んできた恰幅のいいお医者さんに、淡々と体調を確認される。私はぼーっと痺れた頭でどうにか一つ一つ答えていく。しばらくすると意識がはっきりしてきて、意識が途切れる前の出来事を思い出してきた。ベッドの脇に置かれている機械を操作しているお医者さんに遠慮しながらも、自分がどうしてここにいるのかを尋ねた。
「山の中で真っ白な朝顔に囲まれて倒れていたよ」
朝顔など見た覚えはなかった。一緒に女の子がいなかったと尋ねてみたが、お医者さんは首を捻るばかりだった。
あの女の子は何だったのだろう。本堂に参拝もせず風鈴ばかり見ていたから、神様がお怒りになったのだろうか。狐か狸にでも化かされたのだろうか。垂れ目だったから狸だろうか。だとしたら随分と現代的な狸だったな。
「あの、すみません。あのお寺はどんな神様を祀っているところかご存じですか?」
「お寺?」
「え、あの、私が倒れていた場所の……」
お医者さんは怪訝そうな顔をした。
「あなたが倒れていた場所はただの山の中ですよ。近くにお寺もないはずやけどなあ」
「え……」
「たまたま山の所有者が様子見に行かはって、見つけてもらえたんやで。落ち着いたら、何であんなとこ入ったんか聞こうと思ってたんや」
言葉を失って視線を落とした先には、真っ白なシーツ。ふとめまいがして、私は目元を押さえた。真っ白なワンピース。真っ白な朝顔。風鈴の音。
”どこに行く予定もないなら、もう少しいいでしょう?”
からからころころ、からからころころ__。
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