でたらめマドレーヌ

「君と別れたら私、死ぬかもしれない」

 自分の声が空々しく鼓膜を撫でた。君が鬱陶しそうな顔をした。私はそれを見て、少し嬉しくなった。私と付き合うのが面倒になったと言うこの人は今、私のことで困っている。

 君が何も言わないので、目の前のマドレーヌを一つ取って、勢いよくかぶりついた。一口で食べきれなかったのがもさりと崩れて、口の端から欠片がポロポロとこぼれた。

「そんなわけないでしょう。真都佳のそういうとこ、うざい」

 君は整った顔を苦しそうに歪めている。その中身はどれほどのものだろうと興味をそそられるほど端正な顔立ちをしているのに、付き合ってみれば案外平凡な人だった。私はそのことに密かに落胆していた。

 そんなわけないことなんて、分かってるに決まってる。私は冷めた目で相手を見た。別れを切り出されて縋っているのはこちら側なのに、なんだか妙な気分がした。

 たかが数年間、数日に一度電話をして、月に何度か週末を共にしただけの人間を失っても、どうにか生きていけることぐらいは、私にだって分かっている。

「君と別れたら私、死ぬと思う」

 にも関わらず、私は繰り返した。我ながらバカみたいだった。

 君はテーブルの上の焼き菓子には目もくれず、ため息を連発しながら私を睨みつけている。ああ、せっかくのマドレーヌがもったいないな。私は物欲しそうに君の分のマドレーヌを眺める。自分の名前にちょっとだけ似てるから、なんとなく大好きになったマドレーヌ。

 そういえば、君にマドレーヌを作って持って行ってあげたことがあったっけ。君は『これ美味いね、どこで買ったの?』なんて言うから、私は『どこだっけ?忘れた』って言った。お店で買ったみたいな味のマドレーヌを私が作れることを、君は知らないまま、君の中の私は死んでしまう。私は聖女マドレーヌじゃないから、死んだところで聖遺物にはなれない、君にも思い出してもらえない。残念。

 君は、私が月に三十冊以上の本を読むことも知らない。きっと、漫画以外の本を読むかどうかすら、知らない。大学では量子アニーリングの研究をしてたことだって、実は年に君より百万近く多い収入があることだって、知らない。

「ほんとだよ、何も食べられなくなって、起き上がれなくなって、死ぬと思う」

 私はやっぱりバカのふりをして、みっともないことを言う。だって、これまでもそうしてきたから。君に対してはいつもそうしてきたから。君は、バカな私しか知らないまま、バカではない私のことは、もう知るよしもない。

 全部にせもの。作ったほんもの。私はでたらめマドレーヌ。

 でも。私はほんの一瞬咀嚼を止めて考え込んだ。ふりだと思っているのはもしかすると私だけで、バカのふりをしている私は、本当にバカなのかもしれない。君から見れば、バカな私が本当の私。私だって、本当の君のことをほとんど知らない。それはこれから長い時間をかけて知っていくはずだった。これから君を知っていくはずだった私は、今死にかけている。

「バカなこと言ってないで、とにかく別れて。もう決めたから」

「ん、分かった」

 君は急に物分かりのいい返事をした私をぽかんと眺めている。

 少しぬるくなってしまったダージリンで、喉に引っかかっていたマドレーヌを流し込んだ。ばいばい、わたし。帰ってさめざめと泣きましょう。



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マドレーヌ

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