4.それが贖罪だというのなら

「ねぇ、あなたにならそれができるんでしょう、鷹山たかやまさん? どうか私を、主人のところへ――」

「……なんで」

 そう求めたかなえさんの顔には抗ってはいけないような何かが浮かび上がっているように見えたけれど、僕はそれに従いたくはなかった。だから、必死に抵抗する。懸命に、止めようとする。

 止めたいのに、出てくるのは「なんで」という言葉だけで。


「なんでそんなこと言うんだ、それに、僕は、」

「あなたが主人を見る視線がずっと気になってた」


 というのはもちろん、かなえさんの夫だった人物――僕が殺した、ある界隈でのフィクサーと目されていた男のことだろう。彼を殺めたことで救えたものも多かった一方で、こうしてかなえさんを苦しませることになってしまった。そのことで迷いを持たない日はない。

 だから、聖樹まさきくんのことも見守ってきた。時には幼稚園に迎えに行ったりまでして、彼が――かなえさんの息子が安全に安心して過ごせるようにしてきた。

 そうすれば、かなえさんの身に起こった不幸を、少しでも癒せるのではないかと思っていたから。そうしたら、きっと僕の罪もいつかは贖われる日が来ると思っていたから。

 それなのに。


「どうして、だって、そんな……、」

「あなたが主人を見る目はね……そう、言うなら憐れんでいるような目だったの。ただ単に可哀想だと思っているのではなくて、どこか勝ち誇ったような、そのうえでと、見下しているような目」

「え、それは、あぅ、」

「あなたは、主人から私を奪った気になって愉しんでいたんじゃないの? それとも、この場所を陽だまりとでも思ってた? 光を失ってただ彷徨ってるだけの私がどうにか昔を思い出しながら作り出していた虚像が、あなたにはそんなに眩しかったの? 温かかったの? 主人への優越感に浸りきって、その程度の嘘も見抜けないくらいになっていたのかな、誰よりも嘘まみれのくせに?

 主人が誰かに殺されていたことはわかってた、あの人は殺される前の夜に私を呼んで、激しく求めてきたんだもの。そのときに漏らしていたの、不安だ、不安だ、と。誰かが自分を見ている、誰かが自分を狙っている、助けてくれ、助けてくれ、って」


 どうしてだろう、あぁ、なんで。

 僕は思わず涙を流していた。そんな資格なんてないのに、今なら言わざるを得ない。僕は、今初めて、ようやくここに至って、自分のしたことを心から悔やんだ。


 僕は、1度だってかなえさんの心を癒せてなんかいなかった。

 それどころか、きっと夫を殺しておいてのうのうと笑って過ごしている最低な殺人者として彼女の目には映っていたのだろう。


「私はね、それを送り出してしまったの。大丈夫、あなたは誰にも殺されはしない、って。あなたは絶対に私のもとへ帰ってくるの、それで聖樹に誕生日プレゼントのジグソーパズルを買ってくるの、って! それで、その日に死んだ……。

 あなたが現れて私を見たとき、どんな顔してたかわかる? 酷かったよ、まるであなたを不幸にしたのは僕です、って言っているみたいに後悔したような顔で! それでも自分は正しいことをしました、とでもいうつもりなのかな? だからそんなに無神経に私や聖樹の前に現れることができたのかな、ねぇ、そうでしょ?」


 夕焼けが全てを染めていく静かな一室。僕はただ、かなえさんの前で呆然と立ち尽くしていることしかできなくて。そんな僕を軽蔑したような目で見つめた後、かなえさんは暗い笑顔で首を振った。

 その姿が、どこか付き物が落ちたように見えて、思わず胸が高鳴って。


「違う、たぶんね、私は疲れたの。連日来ていた記者たちの取材に答えたり、それがひと段落したかと思ったら野次馬根性丸出しで憐れんでくるご近所さんの相手をして、もうそんなの嫌になってどうにかを演じて、それで、無神経に目の前に現れてあっという間に聖樹のお兄ちゃんみたいになってる人殺しの相手までして、変な噂を立てたくないからの場所にだって気を使ったし。

 主人が生きてた頃なんてわりと気軽に家に呼べてたのを、わざわざ聖樹のいない時間のうちに帰って来られるように計算しながら家を訪ねなきゃいけなかったもの。あなたなら知ってるよね、ストーカー直前だもんね、もしかして、私たちがのも覗いてたりして? うわぁ、気持ち悪いね。さすがは犯罪者。ほんとに……っ」


 息継ぎの間もほとんど置かずにしゃべり続けていた彼女は、やがて苦しげに言葉を切って、僕を睨み付けてきた。そのあと、壊れたようにクスクスと笑って。


「もうね、全部放り出したくなったの。聖樹のことも、煩わしいご近所付き合いも、ただ幸せだった頃を思い出すことしか楽しみのない人生も。でね、そのついでに思い付いたんだ、それなら私たちを不幸にしたあなたのことも不幸にしてやろう、ってね。

 とびっきり幸せな気持ちにさせてから、それを自分の手で壊させてやろう、って! それを思い付いてからの毎日は本当に楽しかった……! そっか、それだけは感謝してあげる。ありがとう、……えっとさ、最後くらいあなたの名前を呼んでみたいな」


 。彼女はそう言った。

 無防備に首を曝け出しながら、「このままだとたぶん、私は自分自身を殺してしまうかもね。とびっきり苦しい方法で、たぶん聖樹と一緒に」と脅迫じみたことを言いながら。

 わかってるよ、それがあなたの望むならば。

 それだけが僕にできる贖罪ならば。

 僕にできることは、この無力で愚かで、傲慢な手に力を込めることだけだ。


 こらえることもできないままに涙を流しながら、どうにか声を絞り出して名乗った名前に、「あぁ、意外といい名前」と呟いてから。

 静かな時間が、苦しみの吐息と共に流れて。

 最期に。


「ありがとう、××さん。聖樹のこと、よろしくね」


 その声は、まるで呪いのように耳にこびりついた。

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