3.桜の花は、いずれ散るとても
もちろん、かなえさんからすれば何ということのない、たぶん普段息子の面倒を見てくれる親切な若者に対する礼に過ぎなかったのかも知れない。そこには特別な意図なんてなくて、ただの近所付き合いの一環でしかない。
元はと言えばお腹を鳴らしたのは僕だ、だから何か言われたところでそれをありがたがることこそあれ、疎ましく思う必要なんてないのに。
相手が悪かった。
かなえさんと2人でいることに、果たして僕の心は耐えられるだろうか……? 正直自信がない。
何故なら、今でも思ってしまうから。
彼女の幸せを、僕は奪ったのだと。それと同時に芽生えるのは、緑色の怪物にも似た感情。僕が救ったはずの人々、今まで救ったと思っていた人々、そして僕が殺したあの男の影が心の中で伸びてくる。
肥えて、老いて、きっと若い頃はそれなりの容姿だったんだろうな、とわかる、将来のフィクサー候補と言われていた、かなえさんの夫。
彼を殺せば救われる人が大勢いる。当時の僕にはそれで十分だった。
だけど。
今では迷っている。
後悔なんて言葉は口にしたくない――だから、僕は敢えて迷っていると言う。僕は、迷ってしまうのだ。
確かに、少数の犠牲で多くのものを救えたなら、それは尊いと言えるかも知れない。それでも、結局その犠牲にだって失うものはあるんじゃないか? その犠牲の為の羊にだって、それを大事に想う人がいるんじゃないか? ……そんなことを今更自問しなくてはいけなくなってしまった。
だから、そんな僕にかなえさんの厚意に与る資格なんてあるのだろうか、と考えずにはいられない。
けれど、それを拒むことなど不自然でしかないし、何よりただ想うことしかできないと思っていた相手により近付くチャンスを手放せるほど、僕も人間ができていなかったらしい。
「いいんですか、お邪魔しても?」
「えぇ、もちろん! いつもお世話になってるし」
とても親しげに僕を見てくれるかなえさん。その笑顔に少しだけ胸を痛めながら、僕は彼女たちの部屋に入っていった。
そこで見たのは、遺影に映し出されたかなえさんの夫。
年老いて、肥えて、それでもどこか精悍な顔つきは、間違いなく
目の前で柔らかな笑みを浮かべながら僕に紅茶を出してくれたこの
その全てを、僕が殺したあの男は手に入れていたんだ。
そう思うと気が狂いそうになる。聖樹くんの顔を見ても、時々かなえさんが遠い空を見上げて寂しげな顔をしていても、思わずあの男の影を追ってしまう。
『――――、ぁ?』
そんな間の抜けた断末魔でこの世から消えた男。
ただの標的でしかなくて、それにもうこの世にはいない、消えたはずの男の影に、僕はここまで胸を掻き毟られている。もしかしたら、僕こそが誰よりも、あの男の影を追っているのかも知れない。
そんな影を、断ち切ってしまいたかった。
きっとそれがかなえさんの幸せにも繋がっているはずだと、必死で自分に言い聞かせながら、僕は立ち上がってかなえさんの背後に回る。
「? どうしたの、
「僕は、そんな名前じゃないんです」
決して覆すべきではないはずの偽名を覆す言葉を、口走ってしまう。
「ふぅん……」
「?」
どこかわかっていたかのような返答に、思わず訊き返したとき。不意に振り返ったかなえさんに肩を掴まれ、そのまま唇を重ねられてしまう。
「――――」
「……、ちゅ、くちゅっ、ちゅぷっ」
唾液が糸を引くくらい、激しく絡められる舌。そこについていくように舌を蠢かせながらも、僕は戸惑いでいっぱいになったままの頭で、必死に状況を整理しようとしていた。
だけど、そんな暇など与えてはくれない。
唇を離したかなえさんの瞳は、どこか暗い――新月の夜空のような静寂を湛えていて。
「最後にいい思い出をあげたんだから、これで私も主人のところへ連れて行ってもらえるかな?」
その瞳は、まっすぐに僕を射抜いていた。
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