2.花吹雪の中、鮮烈に色づいて

 その男を殺したのは、言うならばそれを必要としている人がいたから。

 彼が死ぬことで救われる人が相当数いた。彼が生きていれば、彼の周囲はどんどん繁栄していくけれど、その代わり僕にしてきた人たちは間違いなくその命を苦しみの中で終えていただろう。


 僕を先に見出したのが、弱い方の彼らだったから彼らの望みを果たす。

 僕にとって、彼は本当にそれだけの――すぐに忘れてしまえるような存在だったはずなのに。


 * * * * * *


 桜の花びらがヒラヒラと舞う公園の片隅に捨て置かれているベンチに腰を下ろして、真昼の空に浮かぶ薄ぼやけた月を見上げる。特段綺麗なものではない、ただ空がよく晴れ渡っていれば見えるというものだ。

 まぁ雨に比べればいいかな……そう思って、そろそろ腹ごしらえをしに行こうと立ち上がったときだった。

「あ、鷹山たかやまさん、こんにちは」

「あっ、えっと……はい、こんにちは」

 彼女が、ここにきた。

 数週間前に見た、悲しみと絶望に覆われた顔ではない、にこやかな表情。もちろん、他人である僕には見せられない顔だってあるに違いない。ましてや、僕の正体を知ってしまったら絶対にここで見せているような顔とは違う顔になってしまうに違いない。


 穏やかで、にこやかで、美しい。

 大げさではなく、心の底から思うんだ。

 きっと僕の世界はあなたから始まっているんだ、と。


 ――なんて言ったら、どんな顔をするだろう。

 そんな益体のない恐ろしい妄想を振り払いながら、「あれ、聖樹まさきくんは?」と尋ねる。妄想とは違うことを言った僕に対する彼女の顔は妄想の中とは違う穏やかさを帯びていて、僕の心にも、見上げた空と同じくらい鮮やかな色彩が灯るのを感じる。

 きっと、彼女――来栖くるす かなえさんがこうして笑顔を向けてくれるのは、僕の正体を知らないからだ。

 聖樹くんは、かなえさんの一人息子だ。今は幼稚園にかよっていて、明るい性格に無邪気な笑顔、そしてかなえさん譲りなのだろう綺麗な瞳をしている。こんな親子が、僕のせいであんなに悲しい顔をしていたのだと思うと、申し訳ないことだと思うのに心臓が高鳴る。

「あぁ、聖樹ならお友達のお家ですよ? たぶん5時くらいまで戻らないんじゃないかしら。みんなでごっこをするんですって」

 おかしそうにクスクスと笑うその顔には、紛れもない、聖樹くんへの母親としての愛情が込められていた。あぁ、僕はやっぱりおかしい。その笑顔を向けられるのが僕だったらよかったのに、なんてことを平気で考えてしまう。聖樹くんの代わりに僕が彼女の子どもとして生まれてきていたなら。

 そうしたら、目の前にいる女性の優しい微笑みは、僕の為のものだった。

 不意に芽生えたそんな気持ちを振り切りたくて、思わず空を見上げる。


 ふと、すっかり寂しくなった懐と、軽くなってしまった胃袋のことに意識が飛ぶ。もうしばらく、ちゃんとしたものを食べれていない。実入りはいいけれど、あまりにも収入源が不安定過ぎた。ひどいときなんて半年くらい何も連絡がなく、最終的に報酬のキャンセルの連絡が案内所を通して来たことだってある。


と、そんなことを考えていたからか、かなえさんが隣にいる状況だというのにお腹が鳴き声をあげてしまう。どうか気付かないでくれという僕の願いなど誰も聞き入れてはくれず、案の定かなえさんは心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「えっ、あっ、う……」

何か言い訳を探そうとしても、咄嗟に言葉が出てこない。あぁ、まさか彼女の前でこんな失態を演じてしまうなんて……!!

穴があったら入りたいってこういう思いだな、と頭を抱えていると、かなえさんが優しく微笑んで言った。


「そうだ。いつもよくしてもらってるし、聖樹もお世話になってるお礼も兼ねて、ちょっとうちでお昼食べていきません?」


よく晴れた陽だまりの中。

その一瞬、時間が止まったような気さえした。

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