4.シロツメクサで編んだ足枷を

 あの日――正気を失くして喚き散らしていた成澤なるさわさんに日から、私たちの関係は目に見えて変わってしまった。

 家を訪ねると、まず真っ先に身体を求められる。それで、成澤さんが飽きるまで、私の身体が痛くなっても続く。それで、成澤さんが疲れきって、飽きて、もうできないくらいになってから、ようやく落ち着いた時間が始まる。


「……っ」

「しっ、動かないで」

 少しだけ敏感になった肌に、成澤さんの指が触れる。身体の芯から広がっていく感覚に思わず身震いしそうになるけど、彼はそれを許してはくれない。今はもう、今まで通りのメイクアップアーティストを目指す成澤さんだから。

 さっきまでの汗まみれの成澤さんは、今どこにもいない。

 だから、私はその邪魔をしないように、ただじっとしている。どうしてだろう、前よりも深く繋がれたはずなのに、今こうしている時間がひどくもどかしくて、むしろ却って成澤さんのことがわからなくなる。


 そして、変わったことはもう1つ。

「あぁ、駄目だ……、こんなんじゃ僕はまたどん底だ……っ」


 どんなメイクをしてくれても、私にとってそれがどんなに素晴らしいものでも、成澤さんが悲嘆に暮れてしまうようになったことだ。


 私から見たら、全然そんな悲観するようなメイクではない。

「そんなことない、とても綺麗です! 全然いつもの私と違いますもん、成澤さんがしてくれるメイク、ほんとに素敵です!」

 そんな言葉は彼の耳には届かない。

 きっと、スランプのような状態になってしまったんだと思う。私から見たら全然彼の腕は落ちてなんかいない。今まで通り、綺麗で、繊細で、本当に別人になったみたいな、現実から抜け出させてくれる舞台メイクを施してくれている。

 そんな素晴らしいメイクの練習台になれるなんて、幸せでしかないのに。


 それでも、成澤さんはずっと何かを悩んでいる。

 そして、何でそんなに苦しんでいるのか、私に一言も話してくれない。訊けるものなら訊いてしまいたいけれど、だけどたぶん、私には何もできない。私ではわからない部分で悩んでいるに違いないし、頑張って、という無責任な励ましの言葉もかけたくなかった。そうしたら、きっと彼を傷付けてしまうだろうから。

 だから、ただ悩んでいる彼を見て、時々彼の求めに応じて、そんな日々が続いた。

 辛かったけど、それをやめようとは思わなかった。

 大学の同級生から「何かやつれた?」とか言われたりしても、私の悩みを親身になって聞いてくれるゼミの先輩に「その人とは別れた方がいいんじゃないか」と心配する言葉をもらっても、私は成澤さんの傍を離れようとは思わなかった。

 成澤さんがいない私なんて想像もできなかったし、きっと私がいなくなったら成澤さんもどうにかなってしまうから。

 きっと、そうだから。


 この状態を乗り切れば、きっと彼はまた頑張れる。

 彼はまた、笑えるようになる。

 あの自信に満ちた、私の好きな笑顔で。


 そう信じて、私は今日も、


「駄目だ! わかった、僕がここまでうまくいかないのは、キャンバスが悪いからだ! そうだ、そうなんだ! キャンバスが、キャンバスが……っ!!!」


 扉を開けてすぐに聞こえてきた声。

 冷静さを失った、血走った瞳で、嗄れた喉で、扉の外にいる私を突き刺すそんな声。思わず、差し入れで持ってきたバケットを落としてしまう。あぁ、せっかく成澤さんが好きなのを選んできたのに、どうしよう。

 こんな汚いの、食べさせられないよ。

 あぁ、そっか。

 私が悪いんだ。

 が悪いんだもんね、そっか、そっか。


「じゃあ、私の何が駄目なのか言ってくださいよ」

 言いながら成澤さんの部屋に入ったら、ビクッと漫画みたいに肩を震わせてこっちを振り返った。あぁ、声をかけないと気付いてすらもらえない。言ってみてよ、ねぇ。私のどこが悪い?

「どうせ言えないでしょう? ねぇ、何か駄目なことがあるんだったら言ってくださいよ。私に直せるところがあるなら直します、あなたひとりじゃ大変なことがあるんだったらできることをします、でも、何も言ってくれないでただ駄目だ駄目だって言われるのは、」

「――――っ、君には僕のことなんてわからない!」


 ガタン、と椅子を蹴る音。近付いてくる乱暴な足音。

 今まで聞いたことがない激昂した声。頬に走った熱。

 その全部が同時。気が付いたら私は床に倒れていて。


「あ、あぁっ、朱里あかり……っ、すまない、本当にすまない! どうかしていた、僕はどうかしていたんだ、本当に…………、」


 すまない、、、

 そう言った彼の視線は、私の顔を凝視していた。言葉すら中途半端になってしまうくらいに。その瞳が、私の腫れた頬を見つめている。

 それから、少しだけ暗い瞳になって。

「朱里、君は僕を手伝ってくれると言っていたよね?」

 たぶん同じくらい暗い輝きをまとっている私の瞳を見て、囁いた。



 成澤 宏章ひろあきは、その後メイクアップアーティストとして更に名を馳せることになった。それまでの精緻な作風に加えて、どこか狂気すら秘めた退廃的な表現をも実現したメイクによって、知る人ぞ知る話題の人物になったのだ。

 私は、そんな彼の活躍を狭い部屋のテレビで見つめている。


『アシスタントの協力なくしては、この成功はありえませんでした』

『成澤先生がそこまで仰る方なんですね、是非取材をしてみたいですが』

『いえいえ、本人が嫌がりますので取材はご遠慮ください。一般の学生ですので……』


 はい、よく言えました。

 私が学生だっていうことまでは言わなくてよかった気がするけどね。


 成澤さんは、アーティストとして再起した。だけどそれには新しい着想が必要で、それに必要なものは……。

「ふふふ……」

 思わず笑いが漏れてしまう。上がった口角が少しだけヒリヒリと痛むけど、この痛みすら愛おしい。だってこれは私たちの絆の証だから。画面を見ているのに疲れて消したテレビの画面に、腫れ上がった顔を緩めている女が映る。


 でも、こんな顔にされても、私は幸せだ。

 いつも新しいを必要とする彼の命綱は、いま私の手にあるんだから。

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