3.鐘の音で溶けた魔法

 大学と成澤なるさわさんの家とに通う毎日はそれなりに時間を取られるけど、それでも幸せでいっぱいだった。大学ではそれなりに友達と呼べる人と会えたし、それに、ここではたくさんのに会える。


「本日はお気に召しましたか、お嬢様?」

「……はい」


 他の人に言われたらきっと拒否感を覚えるような言葉と、他の人がしてたらきっと嫌悪感を覚えるような気取った仕草に、他の人がしてたらきっと怖気がするような緩んだ笑顔。

 それでここまで気持ちが高まるのは、きっと相手が成澤さんだから。

 もっと早くこの人に出会えていたら……そう思わずにはいられない。

 たぶん成澤さんとなら、もっと幼くて短絡的だった私でも今と同じくらい幸せな恋をしていられたはずだから。綺麗な服を着せてもらって、綺麗なメイクをしてもらえて、そこが最後の到達点。

 その服を汚したり、メイクしてきた顔を歪ませるが控えていないのが、成澤さんだった。



 出会った場所が場所だったから、メイク乗りしそうな肌というわけのわからない言葉で誘い出されて、彼に手を引かれるままに歩いたとき、たぶんひどいことをされるんだろうな、と思っていた。

 恋人でもない人に、めちゃくちゃにされるんだろうな、って。

 めちゃくちゃな扱いをされたことはあるけど、それは一応私自身も恋人だと思ってた人だったから、そんな目に遭ったらもう最悪だな――その時の気分にはちょうどいいとすら思えたけど。


 いざ成澤さんの家について行ったら、本当にただメイクをして私を褒めちぎるだけ。メイク乗りが素晴らしいだとか、君のお蔭でインスピレーションが湧いてきただとか、更には君は創作の女神なんじゃないか……なんてことまで言われたりして。

 ほんとに気持ちよくなって、家に帰った。

 嫌な目に遭うのは嫌だ、怖い、そんなことを思っていたのに、帰って来たら多少の物足りなさすら感じてしまっていた。

 残っていたのは携帯に登録されていた成澤さんのIDと、画像フォルダに残された写真。そこに映った、その数時間前まで鬱々とした自暴自棄さなんて感じられない、煌びやかにも見えるお姫様みたいに美しい女性。

 それから、私は成澤さんの家に通うようになった。


 そこに行けば、私は成澤さんの望むになれる。望まれた世界で、望まれるの私になれる。望まれたい人の望み通りになれる、それが幸せだって気付けたのは、成澤さんのお蔭だ。

 もしかしたら、求めれば応えてくれたのかも知れない。

 だけど、それはきっといまの関係を壊してしまう行為に他ならないから。

 メイクをしてくれる成澤さんの指や吐息は、少し前まで付き合っていた人よりもずっと近くで私に触れてくる。けれど、きっと越えてはいけない透明な壁があるような気がした。

 そこを越えようとしたとき、たぶん私たちの関係は決定的に変わってしまうから。

 臆病な私は、段々と膨らんでいくそんな望みを心のどこかに押し込める。


 レポート提出とバイトのシフト変更が重なったせいで訪ねるのが1週間ぶりになってしまった今日も、そんなの延長線上だと思っていた。

 だけど。


「駄目だ、何も浮かばない……っ!」

 立ち込める、据えた臭い。

 お酒の臭いと、汗と、脂と、それにどこか獣じみた青臭さが鼻についた。

 窓から入り込む陽光を受けて、部屋を舞っている埃がキラキラと輝いている。一見するととても幻想的で美しい光景。だけど、その中心で小さな木の机の前、椅子の背もたれにだらしなく寄りかかって宙を見上げている人がいる。

 一瞬、誰だかわからなかった。

 いつも大人っぽくて、余裕があってにこやかな成澤さんじゃない。魔法みたいに人を変えてしまえる人じゃない。

「成澤さん……?」

 ふとかけた声に、ビクッと震える背中が、飛び跳ねたように見えた。


「えっ?」

 気が付くと、私は部屋の片隅にあるベッドに引き倒されていて。

「どこに、どこに、どこに行っていたんだ、朱里あかり……っ、君がいない間、何も浮かばない、何も考えられなかったんだ……! どうして僕のもとからいなくなった……!? 言え、答えるんだ、朱里!」

 半狂乱になって私を見つめる成澤さん。

 その血走っているのにどこか透き通った瞳には、私の困惑した顔が映っている。

 童話のように、映画のように、漫画のように、理想像に変わった姿の私ではなくて、本当にそのままの私が。

 私、だけが。


 たぶん、私たちはもうとっくにどこかがおかしくなってたんだ。

 じゃなきゃ、こんな状況で感じるはずがない。

 愛おしさなんて、芽生えるはずがない。


 成澤さんの瞳の中で、私の顔が淡く微笑む。染まった頬は艶めかしくて、潤んだ瞳は、自分だと思うと気持ち悪いくらいにじみていて。そんな顔が大写しになったかと思うと、私の唇に渇いてカサカサになった唇が触れた。

 唇や肌はカサついていて、若くはないんだって思わされるのに、唇の間から割り入ってくる舌は奇妙なくらい温かくてぬるぬるしていて、私は思わず息継ぎをしたくて口を開いた。

 その間も舌は絡みついたまま。

 タバコとお酒が混ざった不快な臭いのする唾液が、私の口腔内に入ってくる。私の身体に、溶けていく。

 次第に熱くなっていく熱が成澤さんのものなのか、私のものなのか。

 そんなことはもう、どうでもよかった。

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