2.魔法使いのアトリエは街外れに
大学から少し歩いた場所にある、古びた家の一室。そのすぐ後ろに敷かれた線路をけたたましい音を立てて走る電車でさえも遮れない静寂と集中の糸が張り巡らされた部屋の中で、彼は微笑んでいる。
彼に見せられた鏡に映っていたのは、ここに来るまでの地味なメイクしかしていなかったただの大学生なんかじゃない、まるで童話に出てくるお姫様みたいな女性だった。
「これが、私……?」
ありきたりな言葉だけど、これが素直な感想だった。
「
彼にも笑われてしまう。だって、それしか言葉が浮かばなかったんだから仕方がない。訊いてみると、バイトをいくつか掛け持ちしてどうにか学費を捻出している私でもどうにか手が出せそうな値段のメイク道具をいくつか組み合わせて使っているだけとのこと。
うーん、本当なのかな。私が自分でやったときにはこんな仕上がりにはならなかったけど……。
きっとそれは、それだけ彼のセンスとメイク技術がすごいということなのかも知れない。私自身がそれを証明している――生き証人とでも言えばいい? とにかく、彼の凄さを証明できているという実感がある。
だって、メイクによって私は煌びやかなお姫様にも、自由な旅人にも、清廉で気高い聖女にもなれる。逆に、人を惑わす悪女にも、人から恐れられる孤独な狂女にも、きっと彼は自分の望む人を、望む姿に、望むように変えることができる。
まるで、魔法みたいに。
彼――
といっても、最近までその腕も振るわずにしばらくその役割から遠ざかって、人間関係の問題から退団一歩手前まで追い込まれていたけれど。私が彼と出会ったのは、ちょうどそんな時期だった。
その夜は、薄雲に覆われた朧月の光が灰色の夜空に散らばっている初秋の、まだ少しだけ蒸し暑い夜だった。
たぶん、友達と喧嘩した直後で何となく気持ちが腐っていたこともあった。
少しだけ自暴自棄になっていたのだろう、普段は入ったりしない裏路地にある小さなバーじみたお店(確か名前は【Weiℨe Apfel】だった気がする)で、強めのお酒を飲んでいた私の目の前で、成澤さんはひどく荒れていた。
その姿に、一瞬正気を取り戻してしまいそうなほどに。
バーとは言っても、そこは飲みたい人の集まり場所みたいなところ。そして、酔った勢いという言葉の含む範囲が良識よりもずっと広いところ。周りでは大声で笑い合う人だったり、更に気持ちが昂ってしまったのだろう、連れ立って来ていたらしい人たちの中にはキスや、それでは留まらずにお互いの愛撫まで始めてしまっている人もいた。
目のやり場に困ってしまうような行為も、そのバーの中では許される。
どうしてか、私の中にもそういう認識が擦り込まれたようになっていた。
かといって、その中に交ざる勇気がなかったから、私は独りでお酒を飲んでいた。
そんな中で見つけた、私以外に独りの人。
私の中にも確かにあった酔った勢い、その言葉を根拠にした濃密な交わりが堂々と行われる場所の空気、その中に交ざれない孤独感、焦燥感、自分自身を傷付けてしまいたいほどの苛立ち。
いろんな感情が入り混じって、私の喉から「どうかしたんですか?」という言葉を押し出した。
その言葉に対する成澤さんの返事は、今でも忘れられない。
まず、彼の肩に触れた手をぎゅっ、と掴まれて。
次に泣き腫らしたように赤くなった目で見つめられて。
汗とアルコールの臭いが鼻につく身体を近寄せて。
最後に、煙草臭い吐息を無遠慮に吹きかけながら。
「君、すごくメイク乗りのよさそうな肌をしているな。すぐに来てくれないか?」
この言葉に頷いて、私はこの幸せな今を掴んだ。
それが、永遠のものだと自分に言い聞かせたまま。
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